『朝鮮新報』(朝鮮語版)の10月20日付時論に「日本の下心を警戒すべし」というリャン・ミョンチョル氏の署名記事が掲載された。日本語版には掲載されていないので、その議論を翻訳して紹介したいと思う。
■時論日本の下心を警戒するべし 何故、朝鮮がこの時期に核実験をしたのか。その目的に対して様々な見解が出ている。しかし、アメリカが直接会談に出るように「圧力」をかけたからだとか、金融制裁を解除するようにするためのものだなど、目の前のことにとらわれた見解がほとんどである。
朝鮮が1950年代から核エネルギーの確保のために研究活動を行っていたのは既知のことである。同じく、核エネルギーが発電など平和的な利用もできるし、核武器へと転換できることも周知の事実である。これらを考慮すると、突然に急いでいくつかの成果を得るために核実験を断行したと言うことではないのが一目瞭然である。この視点が欠如している。
核実験の背景
振り返れば、核問題、即ち対米関係において朝鮮ではいくつか重要な山場があった。核拡散防止条約加入(85年)、朝米間の基本合意文(94年)と共同コミュニケ(00年)の調印、六カ国協議参加と9.19共同声明発表(05年)などだ。朝鮮側は核武器を保有しないことを宣言し、平和利用権利を獲得し、核活動の凍結を保障することによって軽水炉2基の提供とともに国交樹立までアメリカと約束した。
しかし、この約束は01年に発足したブッシュ政権によって全て覆された。その中でも若干の希望を持って六カ国協議にて「会話対会話」、「行動対行動」の対等原則による共同声明発表まで至ったが、それも金融制裁によって保留されてしまった。
朝米は戦争を一時中断した状態(53年朝鮮停戦協定)である。アメリカは数万発の様々な種類の核武器を持ち、朝鮮での使用を前提とした軍事行動計画を立てて、実戦練習を毎年行って来たし、特に、ブッシュ政権は朝鮮抹殺を繰り替えて公言して来た。朝鮮が核実験を断行せざるをえなかった背景である。
制裁の先頭に
憲法を改正(第9条を放棄)し、「集団的自衛権」を行使し、将来核武装も検討する―対朝鮮制裁の先頭に立っている日本の安倍首相の政治的信念を集約するとこのようになるのであろう。
「戦う国、日本」の宣言は侵略された民族から見ると「軍国主義日本」の復活宣言である。
しかし、このような日本の将来像に対して、安倍首相だけが突出して話していることではない。過去侵略戦争を「米国、英国などの圧力から日本を守るために行った自衛の戦争」と言った古臭く、時代錯誤的で、独善的な理論を繰り広げて来た右翼政治家達が一貫して主張して来たものである。中曽根元首相は核武装論まで展開している。
侵略戦争に参加した老人達が「郷愁に浸った」でたらめなことだと処理できるかも知れないが、安倍首相や「核武装研究」発言をしている自民党の中川幹事長などは戦争を経験していない人々である。
宿望実現の理屈
現在、日本の現執権層は、主権行使としての朝鮮のミサイル発射訓練と核実験を軍事大国化といった自分らの宿望を早期実現するための絶好の理屈、材料として悪用している。
朝鮮は何故このような勢力を手伝う行動を取っているのかという声が一部出ている。実際に、日本の軍事大国化を憂慮する人々から直接非難めいた指摘をもらったこともある。
しかしながら、上で指摘したように日本が軍事大国になろうとする意志は以前から明らかに着実に行動に移されて来た。対朝鮮制裁騒ぎの裏側に隠している日本の下心を警戒せねばならぬのだ。
(リャン・ミョンチョル)
日本国内での議論とは反対方向の論調であるが、いくつか面白い点がある。「朝鮮は何故このような勢力を手伝う行動を取っているのかという声が一部出ている。実際に、日本の軍事大国化を憂慮する人々から直接非難めいた指摘をもらったこともある。」という点である。朝鮮の核保有をはじめとする政策は、周辺諸国からも歓迎されない面があることを認めているように思える。
日米だけでなく、韓国や中国でも、多くの人々が朝鮮にも下心(侵略的な思考や、南との力関係を維持するために核を持とうとしているのではないかなど、いろいろ)があるのではないかと疑っている人は多い。今回の時論は、在日朝鮮人社会における朝鮮での核実験や日本社会の変化についての本音が書かれているだけに、このような外部社会の疑念に、この著者だったらどう答えるだろうか。
朝鮮の核実験が国際的な非難にさらされるのは、朝鮮の核兵器保有によって周辺諸国が人質に取られる疑念が払拭できないからであり、朝鮮はそれに答える必要がある。「小国が生きていくために必要だ」というのは、内輪の論理であり、それだけでは外部世界の理解を得られない。この筆者が指摘している「日本の下心」論に対して、そんな馬鹿なことはないとただ言い返すだけでは、理解が得られないのと同じである。
朝鮮が現在、国際社会に向かって行わなければならないのは、朝鮮が核兵器を持たなければならない理由について、国際社会が納得するような言葉で説明を行うことである。「自分たちの頭の上で核兵器が炸裂するよりは、朝鮮の体制が倒されるほうがましだ」、と考える人たちに朝鮮は自らの正当性をどう語りかけるだろうか。
反面、この記事に指摘されているような疑念が現実に存在する以上、日本も現在とっている政策が、決して拡張的な軍国主義を目指したものではないということを朝鮮や国際社会に向かって説明する必要がある。中国や韓国、朝鮮が日本を信用し、共に協力していく関係を作るためには、国内的には常識とされることでも、繰り返し説明を行っていく必要がある。また、その説明が説得力を持つような行動が付随することが望ましい。
日本が東アジアの国際社会で信用され、尊敬される国になることは(かなりの部分は達成されていると思うけれど、残された問題も大きい)、日本の名誉となるだけでなく、この地域の将来的な繁栄を保証する上で重要な条件となる。平和で繁栄する東アジアをつくる作業に、日本が積極的に関与するようになれば、日本人にとって居心地のよい東アジアになる(おそらく、日本人はあちこちで今よりもずっともてるようになるだろうし、大衆食堂ではご飯を大盛りにしてくれるようになるだろう。ソウルのポジャンマチャで酔っぱらいのおじさんに歴史談義をふっかけられることも少なくなるだろう)。過去の歴史問題に拘泥しなくとも、日本人は日本人であることに自信と誇りを持てるようになるのではないだろうか(現状でも、日本は充分自信を持ってもいいと思うけれど、世の中ナイーブな人が多いので)。
朝鮮も日本も、周辺諸国や世界の疑問・疑念に誠実に回答していく必要があることに変わりはないと思う。
私は日本がアジアから、世界から愛される国になってほしいと思う。同時に、朝鮮も同じようにアジアから、世界から愛される国になってほしい。日本も朝鮮も、その資格と能力を兼ね備えた国であると思う。
そのためには、日本は過去の歴史についての率直な反省を表すことを躊躇してはいけない。日本が朝鮮半島や中国、東南アジアを侵略した事実は事実として認め、日本が再びそのようなことを起こさない(国際問題を軍事力で解決しようとしない)ということを納得してもらえるように努力する必要がある。多くの日本人は、現政権が跳ねっ返りなだけで、日本が再び侵略戦争を起こすなんて考えられないと思っているだろうが、侵略された側にとっては、いつまでもその疑念がぬぐえないことを理解する必要があろう(当たり前のことを繰り返し説明することの必要性はここにもある)。明治維新以後の日本があのような道を歩んだのは、外的環境に規定された部分が大きいという主張もあろうが、過去に過度に拘泥することによって失うものは、得られるものよりずっと大きいと思う(現在の日本の潜在力と魅力にかけてみようではないか)。
朝鮮の現在の行動を、過去の日本の行動と重ね合わせてみると、多くの部分で共通点を見いだすことができる。当事者から見れば「その道を選ばざるを得なかった」と説明したくなることが多い。現在の朝鮮の行動は不可解かもしれない。しかし、過去の日本の行動も、欧米諸国からすれば相当不可解であっただろう。なぜ日本がポツダム宣言をなかなか受諾できなかったのか。当時の日本人の考えを理解できるのなら、アメリカの体制保証にこだわる現在の朝鮮人の考えも同じ脈絡である程度説明がつくのではないか。相手の立場になって自らの行動と相手の行動を考える視点(と余裕)が、今の日本社会に欠けているのは事実である。そこから脱却することが、日本が周囲から愛される国になるための一歩だと思う。
朝鮮の宣伝下手は随分以前から指摘されていますね。すこし、いやかなり自我自讃しすぎますからね。
日本の場合は反対になにも発しなすぎるきらいがあると思います。
悲観的な意見ですが、ひょっとすると朝鮮と日本は今後も和解できないのではと暗い気持ちになっています。
朝鮮の人々はプライドが高く、自分たちの正しさや理想を自分たちが思っているよりも強調する傾向が強いようです。そう思って朝鮮の報道を読んでいると、強硬な発言の陰に隠れた本音や困惑、悩みが見えてきて、「大変だな〜」と思います。大上段に構えず、もっと率直に「困っているんだ〜」と言えるといいなといつも思います。
過去、南北間ではこのプライドがぶつかり合って、外部から見ると滑稽なほどまでに意地の張り合いをしていましたが、最近はより実用主義的になってきたようですね。
日本の人々は、自分が「足りない」と思っているときには、いろいろなことに学び、改善を行おうという心にあふれていると思うのですが、「これでいい」と思い出すと、いきなり傲慢になる傾向にあるのかな、と思います。
2002年9月17日以降、日本のマスコミでは、朝鮮は「悪いもの」として扱われてきました。そういう報道に毎日接していると、朝鮮のすべてが悪いように思えてくるのでしょう。朝鮮が悪いと言うときには証明がいらず、朝鮮にも理があると言うときには、それを立証しなければならないという状況になっています。
朝鮮から見れば、日本は過去を反省もしていないし、最近は右傾化傾向を強めているので、とんでもない国に見えるのでしょう。
そういう両国が、どうやったら和解できるのか。難しいような気もしますが、上手に糸口をつかめば、何とかなるようにも思います。あまり悲観せずに、できることからやっていきましょう。
hakhonさん、おはようございます。
昨夜はhakhonさんが悲観的になった部分はどこなのか、コメントが頭から離れず、よく眠れませんでした。
「時論」の提起している疑問に答えられるよう、本文の後半に若干加筆してみました。