朝鮮半島情勢が緊迫する中、最近よく耳にするのが、「国益」という言葉である。国家の利益という意味であるが、結局はある国家が何を重視して行動するか、その優先順位を表すということになるのだと思う。
国家が選択を行うときの優先順位と言うことから、国益の内容は多岐にわたる。例えば、アメリカ産の牛肉の輸入をするかしないか(国民の「食の安全」を取るか、アメリカの政治との妥協を図るかという問題)、中国産のネギの輸入の緊急停止をするかしないか(これは農業の保護を取るか、自由貿易をとるかというかなり大きな問題につながっている)、などが国益が具体的に現れる例であろう。性描写をどこまで認めるかとか、妊娠中絶を認めるかどうか、などというのも国益に属する(国によっては、そういうことが内政の最大の対立点になったりする)。高速道路や新幹線をどこまで造るかというのも、国益をめぐる議論である。
しかし多くの場合、国益というのは外交や安全保障を語るときに多く出てくる。そのときの国益は、少々ナイーブに語られすぎるきらいがある。朝鮮が核兵器を持ったことで、日本も核武装するべきであるという議論が始まろうとしているが、その時によく出てくるのが、国益という言葉である。国政における優先順位と言えば当たり前の議論だが、「国益」と言われると何となく神々しい感じがするから(反吐が出る人もいると思うけれど)、言葉の力というのは恐ろしい。
日本の国益が何か(=日本にとって大事なことは何か)、ということを考えるときには、国家としての日本国がどのような目的のために設立され、運営されているのかという原点に戻って考えてみる必要があるだろう。そうすることにより、さまざまな国益に共通する普遍的な原則が見えてくるのではないだろうか。
日本国という国家の原則は、日本国憲法にいろいろと規定されている。各条文の紹介や解釈をすると長くなってしまうので、前文から日本国憲法が基礎をおいている考え方を引用すると、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。」となる。
前文の規定は、難しく言うと日本国憲法が近代立憲主義の原則に基づいており、個人の人権保障や権力分立、個人の尊重などといった国家権力の制限を第1の特徴とし、国民主権に基づいた代表民主制を第2の特徴とするということを示している、ということになる。
非常に簡単に言うと、国家としての日本国は、国民にサービスする、すなわち国民を幸せにするために存在しているということになる。国家機構に属する人々、すなわち政治家(議員)や公務員は国民の雇い人である。雇い人たちは国民に国政を任されているからこそ権威があるのであって、国民に奉仕できなければ(国民を幸せにできなければ)権威などない、ということになる。
すなわち、一人ひとりの国民が国益を考えるときの一番簡単なテストは、「そのような政策が採られて、自分や自分の周りの人が幸せになるだろうか」ということになるだろう。
そのためには、何が幸せなのかについて自由に議論ができて(自由)、自分たちを幸せにしない雇い人たちをいつでも解雇できるシステム(民主主義)が必要である。
日本国は国民のためにあるのであって、国民が日本国のためにあるのではない。
国家は国民を幸せにするために存在する。
これが現在の日本を作っている基本的なルールである。
そしてこれが日本国の最高の国益ではないだろうか。
考えさせられる記事です。アジアの国々は基本的に「国家優先」的な発想が多いような気がします。
また最近は市井の人までが国家を代表するような発言が増えているように思います。
日本だけではなく他の国においても本当の意味での「国益、主権、民主主義等」をもう一度きちんと考えててみる必要があるでしょうね。
hakhonさん、こんにちは。コメントが遅くなってしまいました。少し長くなったので、本文に「新しい発展モデルとしての日本」として書くことにしました。ぜひご覧になってみて下さい。