2006年10月アーカイブ

朝鮮半島情勢が緊迫する中、最近よく耳にするのが、「国益」という言葉である。国家の利益という意味であるが、結局はある国家が何を重視して行動するか、その優先順位を表すということになるのだと思う。

国家が選択を行うときの優先順位と言うことから、国益の内容は多岐にわたる。例えば、アメリカ産の牛肉の輸入をするかしないか(国民の「食の安全」を取るか、アメリカの政治との妥協を図るかという問題)、中国産のネギの輸入の緊急停止をするかしないか(これは農業の保護を取るか、自由貿易をとるかというかなり大きな問題につながっている)、などが国益が具体的に現れる例であろう。性描写をどこまで認めるかとか、妊娠中絶を認めるかどうか、などというのも国益に属する(国によっては、そういうことが内政の最大の対立点になったりする)。高速道路や新幹線をどこまで造るかというのも、国益をめぐる議論である。

しかし多くの場合、国益というのは外交や安全保障を語るときに多く出てくる。そのときの国益は、少々ナイーブに語られすぎるきらいがある。朝鮮が核兵器を持ったことで、日本も核武装するべきであるという議論が始まろうとしているが、その時によく出てくるのが、国益という言葉である。国政における優先順位と言えば当たり前の議論だが、「国益」と言われると何となく神々しい感じがするから(反吐が出る人もいると思うけれど)、言葉の力というのは恐ろしい。


日本の国益が何か(=日本にとって大事なことは何か)、ということを考えるときには、国家としての日本国がどのような目的のために設立され、運営されているのかという原点に戻って考えてみる必要があるだろう。そうすることにより、さまざまな国益に共通する普遍的な原則が見えてくるのではないだろうか。

日本国という国家の原則は、日本国憲法にいろいろと規定されている。各条文の紹介や解釈をすると長くなってしまうので、前文から日本国憲法が基礎をおいている考え方を引用すると、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。」となる。

前文の規定は、難しく言うと日本国憲法が近代立憲主義の原則に基づいており、個人の人権保障や権力分立、個人の尊重などといった国家権力の制限を第1の特徴とし、国民主権に基づいた代表民主制を第2の特徴とするということを示している、ということになる。

非常に簡単に言うと、国家としての日本国は、国民にサービスする、すなわち国民を幸せにするために存在しているということになる。国家機構に属する人々、すなわち政治家(議員)や公務員は国民の雇い人である。雇い人たちは国民に国政を任されているからこそ権威があるのであって、国民に奉仕できなければ(国民を幸せにできなければ)権威などない、ということになる。

すなわち、一人ひとりの国民が国益を考えるときの一番簡単なテストは、「そのような政策が採られて、自分や自分の周りの人が幸せになるだろうか」ということになるだろう。

そのためには、何が幸せなのかについて自由に議論ができて(自由)、自分たちを幸せにしない雇い人たちをいつでも解雇できるシステム(民主主義)が必要である。


日本国は国民のためにあるのであって、国民が日本国のためにあるのではない。
国家は国民を幸せにするために存在する。

これが現在の日本を作っている基本的なルールである。

そしてこれが日本国の最高の国益ではないだろうか。

『朝鮮新報』(朝鮮語版)の10月20日付時論に「日本の下心を警戒すべし」というリャン・ミョンチョル氏の署名記事が掲載された。日本語版には掲載されていないので、その議論を翻訳して紹介したいと思う。

■時論

日本の下心を警戒するべし

何故、朝鮮がこの時期に核実験をしたのか。その目的に対して様々な見解が出ている。しかし、アメリカが直接会談に出るように「圧力」をかけたからだとか、金融制裁を解除するようにするためのものだなど、目の前のことにとらわれた見解がほとんどである。

朝鮮が1950年代から核エネルギーの確保のために研究活動を行っていたのは既知のことである。同じく、核エネルギーが発電など平和的な利用もできるし、核武器へと転換できることも周知の事実である。これらを考慮すると、突然に急いでいくつかの成果を得るために核実験を断行したと言うことではないのが一目瞭然である。この視点が欠如している。

核実験の背景

振り返れば、核問題、即ち対米関係において朝鮮ではいくつか重要な山場があった。核拡散防止条約加入(85年)、朝米間の基本合意文(94年)と共同コミュニケ(00年)の調印、六カ国協議参加と9.19共同声明発表(05年)などだ。朝鮮側は核武器を保有しないことを宣言し、平和利用権利を獲得し、核活動の凍結を保障することによって軽水炉2基の提供とともに国交樹立までアメリカと約束した。

しかし、この約束は01年に発足したブッシュ政権によって全て覆された。その中でも若干の希望を持って六カ国協議にて「会話対会話」、「行動対行動」の対等原則による共同声明発表まで至ったが、それも金融制裁によって保留されてしまった。

朝米は戦争を一時中断した状態(53年朝鮮停戦協定)である。アメリカは数万発の様々な種類の核武器を持ち、朝鮮での使用を前提とした軍事行動計画を立てて、実戦練習を毎年行って来たし、特に、ブッシュ政権は朝鮮抹殺を繰り替えて公言して来た。朝鮮が核実験を断行せざるをえなかった背景である。

制裁の先頭に

憲法を改正(第9条を放棄)し、「集団的自衛権」を行使し、将来核武装も検討する―対朝鮮制裁の先頭に立っている日本の安倍首相の政治的信念を集約するとこのようになるのであろう。

「戦う国、日本」の宣言は侵略された民族から見ると「軍国主義日本」の復活宣言である。

しかし、このような日本の将来像に対して、安倍首相だけが突出して話していることではない。過去侵略戦争を「米国、英国などの圧力から日本を守るために行った自衛の戦争」と言った古臭く、時代錯誤的で、独善的な理論を繰り広げて来た右翼政治家達が一貫して主張して来たものである。中曽根元首相は核武装論まで展開している。

侵略戦争に参加した老人達が「郷愁に浸った」でたらめなことだと処理できるかも知れないが、安倍首相や「核武装研究」発言をしている自民党の中川幹事長などは戦争を経験していない人々である。

宿望実現の理屈

現在、日本の現執権層は、主権行使としての朝鮮のミサイル発射訓練と核実験を軍事大国化といった自分らの宿望を早期実現するための絶好の理屈、材料として悪用している。

朝鮮は何故このような勢力を手伝う行動を取っているのかという声が一部出ている。実際に、日本の軍事大国化を憂慮する人々から直接非難めいた指摘をもらったこともある。

しかしながら、上で指摘したように日本が軍事大国になろうとする意志は以前から明らかに着実に行動に移されて来た。対朝鮮制裁騒ぎの裏側に隠している日本の下心を警戒せねばならぬのだ。

(リャン・ミョンチョル)


日本国内での議論とは反対方向の論調であるが、いくつか面白い点がある。「朝鮮は何故このような勢力を手伝う行動を取っているのかという声が一部出ている。実際に、日本の軍事大国化を憂慮する人々から直接非難めいた指摘をもらったこともある。」という点である。朝鮮の核保有をはじめとする政策は、周辺諸国からも歓迎されない面があることを認めているように思える。

日米だけでなく、韓国や中国でも、多くの人々が朝鮮にも下心(侵略的な思考や、南との力関係を維持するために核を持とうとしているのではないかなど、いろいろ)があるのではないかと疑っている人は多い。今回の時論は、在日朝鮮人社会における朝鮮での核実験や日本社会の変化についての本音が書かれているだけに、このような外部社会の疑念に、この著者だったらどう答えるだろうか。

朝鮮の核実験が国際的な非難にさらされるのは、朝鮮の核兵器保有によって周辺諸国が人質に取られる疑念が払拭できないからであり、朝鮮はそれに答える必要がある。「小国が生きていくために必要だ」というのは、内輪の論理であり、それだけでは外部世界の理解を得られない。この筆者が指摘している「日本の下心」論に対して、そんな馬鹿なことはないとただ言い返すだけでは、理解が得られないのと同じである。

朝鮮が現在、国際社会に向かって行わなければならないのは、朝鮮が核兵器を持たなければならない理由について、国際社会が納得するような言葉で説明を行うことである。「自分たちの頭の上で核兵器が炸裂するよりは、朝鮮の体制が倒されるほうがましだ」、と考える人たちに朝鮮は自らの正当性をどう語りかけるだろうか。

反面、この記事に指摘されているような疑念が現実に存在する以上、日本も現在とっている政策が、決して拡張的な軍国主義を目指したものではないということを朝鮮や国際社会に向かって説明する必要がある。中国や韓国、朝鮮が日本を信用し、共に協力していく関係を作るためには、国内的には常識とされることでも、繰り返し説明を行っていく必要がある。また、その説明が説得力を持つような行動が付随することが望ましい。

日本が東アジアの国際社会で信用され、尊敬される国になることは(かなりの部分は達成されていると思うけれど、残された問題も大きい)、日本の名誉となるだけでなく、この地域の将来的な繁栄を保証する上で重要な条件となる。平和で繁栄する東アジアをつくる作業に、日本が積極的に関与するようになれば、日本人にとって居心地のよい東アジアになる(おそらく、日本人はあちこちで今よりもずっともてるようになるだろうし、大衆食堂ではご飯を大盛りにしてくれるようになるだろう。ソウルのポジャンマチャで酔っぱらいのおじさんに歴史談義をふっかけられることも少なくなるだろう)。過去の歴史問題に拘泥しなくとも、日本人は日本人であることに自信と誇りを持てるようになるのではないだろうか(現状でも、日本は充分自信を持ってもいいと思うけれど、世の中ナイーブな人が多いので)。

朝鮮も日本も、周辺諸国や世界の疑問・疑念に誠実に回答していく必要があることに変わりはないと思う。

私は日本がアジアから、世界から愛される国になってほしいと思う。同時に、朝鮮も同じようにアジアから、世界から愛される国になってほしい。日本も朝鮮も、その資格と能力を兼ね備えた国であると思う。

そのためには、日本は過去の歴史についての率直な反省を表すことを躊躇してはいけない。日本が朝鮮半島や中国、東南アジアを侵略した事実は事実として認め、日本が再びそのようなことを起こさない(国際問題を軍事力で解決しようとしない)ということを納得してもらえるように努力する必要がある。多くの日本人は、現政権が跳ねっ返りなだけで、日本が再び侵略戦争を起こすなんて考えられないと思っているだろうが、侵略された側にとっては、いつまでもその疑念がぬぐえないことを理解する必要があろう(当たり前のことを繰り返し説明することの必要性はここにもある)。明治維新以後の日本があのような道を歩んだのは、外的環境に規定された部分が大きいという主張もあろうが、過去に過度に拘泥することによって失うものは、得られるものよりずっと大きいと思う(現在の日本の潜在力と魅力にかけてみようではないか)。

朝鮮の現在の行動を、過去の日本の行動と重ね合わせてみると、多くの部分で共通点を見いだすことができる。当事者から見れば「その道を選ばざるを得なかった」と説明したくなることが多い。現在の朝鮮の行動は不可解かもしれない。しかし、過去の日本の行動も、欧米諸国からすれば相当不可解であっただろう。なぜ日本がポツダム宣言をなかなか受諾できなかったのか。当時の日本人の考えを理解できるのなら、アメリカの体制保証にこだわる現在の朝鮮人の考えも同じ脈絡である程度説明がつくのではないか。相手の立場になって自らの行動と相手の行動を考える視点(と余裕)が、今の日本社会に欠けているのは事実である。そこから脱却することが、日本が周囲から愛される国になるための一歩だと思う。

朝鮮の核実験にともなう、日本と国連の経済制裁の効果について、職場で「対北朝鮮経済制裁の効果と課題」というレポートをまとめた。このレポートでは、日本独自の経済制裁と、国連決議にともなう経済制裁についての朝鮮経済に対する影響を推測してみた。

8月9日にすでに述べたように、2005年の朝鮮の貿易総額に占める日本の割合は5%を切っている。対日輸出に関して言えば、この数値が上がり、9.8%となる。この9.8%が日本単独の輸入制限により、失われることの意味は、経済的には個別の貿易会社や部門にとって小さくないものの、そういった政治的にはそれほど力がないという分析を行った。

日本では「日本との貿易での黒字は軍に流れるので、経済制裁は効果がある」などと言われているが、核実験を行うことを決定した以上、多少の経済的損失は織り込み済みであることは想像に難くない。日本政府が朝鮮に対して敵対的でありたい、という願望は伝わるかもしれないが、朝鮮の政策判断は日本の経済制裁によって左右されるものではない。

朝鮮が本当に困るのは、中国と韓国が本気で経済制裁を行ったときである。現状では中韓両国の国連決議への対応が出そろったわけではないので、具体的な数値について言及することはできないが、韓国の対外経済経済政策研究院(KIEP)が出した「核実験以後の国際社会の対北制裁が北韓経済に与える影響」(朝鮮語)では、中国の場合はまず無償援助の縮小と投資の鈍化、韓国の場合は民間の支援事業に対する政府のマッチングファンドの供与を水害被害に対するもの以外の停止や金剛山観光事業と開城工業団地事業の再検討などが制裁のオプションとして取り上げられている。

中朝間の貿易は、(1)国家間の貿易、(2)地方間の貿易、(3)個人間の貿易の3つの類型に分けることができると思う。(1)は主に中国全土と平壌を中心とした地方の貿易、(2)は吉林省や遼寧省が対岸の咸鏡北道、両江道、慈江道や平安北道間での貿易、(3)は国境地方での華僑や朝鮮族による担ぎ屋貿易などである。また、この他にも密貿易もあるが、ここでは割愛しておく。

中朝間の貿易で国連決議による影響を受けるのは(1)→(2)→(3)の順となろう。ただし、現状では石油の供給を一挙に止めるような、朝鮮を完全に追い込んでしまうような形での制裁は行わないだろう。また、地方間の貿易、特に吉林省と北部3道との関係や、遼寧省の山奥などで行われている貿易は朝鮮側に住んでいる人々の生命線でもあるため、簡単に止めることはできないものと思われる。結局、外国メディアなどの目につく遼寧省丹東市を中心に、輸出入禁制品を増やしたり、税関検査を強化するなどの手段を使って、制裁を実行していることをアピールすることになるのではないかと思う。

このような表面的な対応とは裏腹に、実は中国は数年前から朝鮮に対する貿易貨物、特に化学薬品などについては、監視の目を強化してきた。核実験が行われたことにより、中国国内で朝鮮を友好国として見るのではなく、中国の生存を阻害する存在として見る勢力が以前よりも力を持ちつつあるような感じがする。そのため、大量破壊兵器に関連する物品が国連で定義されれば、そのような貨物の通過を中国が見逃すことはないだろう。

韓国の対朝鮮交易は、このファイルにあるとおり一般的に考えられている貿易(商業性取引の中の貿易)だけでなく、開城工業団地の建設資材や工場設備などの「投資」にあたる項目、基本的に支援の性格を帯びている非商業性取引などの項目を含んでいる。そのため、純粋な貿易額はそれほど多くはない。しかし、朝鮮に金剛山観光事業にかかわる送金や第3国を経由して朝鮮に援助される民間の支援事業などは、この統計に入らないため、韓国から朝鮮に流れるモノやカネの量は、相当大きいものと考えられる。(現在、その規模を推計中)

このような中韓の朝鮮に対する経済的な影響力を見ると、日本は単独で制裁を行うよりも、中国や韓国により厳しい制裁措置を行うような働きかけを行った方が、朝鮮に与える政治的影響力は大きいだろうことが直感的にわかるだろう。もちろん、中韓が日本のこのような働きかけに応じてくれるかどうか分からない。しかし、このような政策協調が行われることこそ、外交上の圧力になるはずだ。政策協調の話はほとんど出てこずに、日本単独の制裁が議論されている現状を見ると、日本は朝鮮に対して政治的な影響力を行使するために制裁を行っているのではなく、ただ単に朝鮮に対して強硬姿勢を見せたい、すなわち「日本は怒っているのだ」ということを知らせるために経済制裁を行っているのではないかという疑問が湧いてくる。

本来、一連の経済制裁条項は朝鮮に対する外交カードを増やすための手段として立法された。水野けんいち議員のホームページに法案の意義が書かれているが、朝鮮に対する日本の経済的影響力が低下している現在、経済制裁を行うことによって朝鮮の態度を変えさせることが難しいことくらい、政府もよく分かっているはずである。また、国連決議による経済制裁も同時に行われるのだから、日本単独の制裁が国際的にはそれほど注目されないことも政府はよく分かっているはずだ。

2006年10月18日の衆議院外交委員会で麻生外相は「ただ、日本としては、今、貿易量というものはこの十年間のうちに大分激減をしておりますので、そういった意味では、日本が新たにこれに入ったより、日本が独自でやっております北朝鮮籍の船舶の入港禁止、北朝鮮との貿易、こっちの方が経済的な意味としては大きいと思っております。」と答弁している。政府は経済制裁の効果があると考えているのだろうか。それとも、これは単に制裁を行うための詭弁に過ぎないのか。

「特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法」第3条には、「我が国の平和及び安全の維持のため特に必要があると認めるときは、閣議において、期間を定めて、特定船舶について、本邦の港への入港を禁止することを決定することができる。」と規定されている。そもそも今回の朝鮮の核実験が、「我が国の平和及び安全の維持のため特に必要がある」と認定する根拠は何なのか。

特定船舶の入港禁止に関する法律の審議過程である2004年6月11日の参議院国土交通委員会では、制裁措置発動の条件として、核実験があげられている。水野賢一衆議院議員は「じゃ具体的にということで、特に北朝鮮などを念頭に置いた場合には、一つには、例えば核実験を強行してきたような場合、若しくはテポドンを始めとするような弾道ミサイルを再発射、我が国に向けて再発射をしてきたような場合、さらには薬物などを国家組織的に日本に流入をさせようというようなことをして、入港禁止などの措置を取らなければこれを根絶することが難しいと判断したような場合、また拉致に関して言えば、この拉致問題などに対しても、こうした国家犯罪に対して圧力を掛けなければこの問題が解決できない、相手側に誠意が見られない、こういうような場合も当然発動要件には入ると思いますし、また武装不審船などにより不法な行動を取ってきた場合、こういうことも考えられるというふうに考えております。」と答弁している。政府、自民党からすれば、立法者意思からしても、今回の経済制裁発動は当然の措置であるということになるのだろう。

そうだとしても、経済制裁を行って朝鮮の政策に変化を与える可能性はあるのか、制裁がどのような外交的戦略に基づくものなのか、また制裁はどのような条件で解除されるものなのか、などについての説明が詳しくなされないままに制裁が行われたことに対しては、外交カードとしての制裁の機能の点で疑問が残る。

経済制裁は実際に行うだけでなく、その議論の過程や解除に関する議論なども政治的な影響力を行使するための手段として使うことができるはずだ。そもそも、この一連の制裁法案は、朝鮮による日本人拉致問題の解決のために、朝鮮が日本との対話に誠意ある対応を行うようにするために立法されたものである。2005年11月7日の衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会で安倍官房長官(当時)は、経済制裁法案が立法されたことが朝鮮に対する圧力になっているという趣旨で、「そうした圧力の中にあって、北朝鮮側は日朝交渉の再開に私は応じてきたものだ、このように思っております。まさに対話と圧力によって解決をしなければいけない。しかし、私たちは、圧力が目的でもないし、対話が目的でもない、問題は拉致問題を解決することである、このように考えています。」と答弁している。今回の核実験に即して言えば、経済制裁の発動の目的は、究極的には朝鮮が核開発を断念すること、目の前の問題で言えば朝鮮が六カ国協議に復帰するために圧力が必要だから、ということになる。

果たして日本単独の経済制裁によって、朝鮮は六カ国協議に復帰したり、核を放棄したりするのだろうか。おそらく、それほどの力はないだろう。また、朝鮮の核実験が今後も反復して行われ、事態がこれ以上に緊迫化する可能性もある。外交カードとしての追加制裁が、所期の効果を上げる可能性が少ない以上、「日本の断固たる意思」を表示するためだけに、数少ない外交カードを切ることが果たしていいことなのか。

日本の国会の会議録は、インターネットで公開されており、ここでの議論は当然、朝鮮国内でも検討がなされているはずだ。もし、経済制裁の政治的影響力を大きくするためには、国会の本会議や各委員会で、日本がなぜ制裁を行うのか、そしてその解除の条件は何なのかを子どもに言い含めるように繰り返し議論することにより、朝鮮に対する日本の「国家意志」をわかりやすい形で記録するのも一つの方法だ。政府のステートメントも、分かり切ったことでも、丁寧に説明することで、日本の考えを朝鮮に知らせることができる(同時に、世界の理解を得る助けにもなるし、国民に対する説明責任を果たすことにもなる)。

10月15日に書いたとおり、朝鮮は大国である日本の一挙一動を見守っている。日本の影響力は、貿易のもたらす経済的影響力よりも、日本がどのような意思を持って朝鮮と対応していくのか、特にどのようにすれば朝鮮は日本と仲良くすることができるのか、を積極的に伝えていくことにより、朝鮮の政治的決断を平和的な方向に誘導することにあるのではないだろうか。経済復興や人的資源の開発に関しては、日本は大きな実績を積んでいる。拉致問題の解決の鍵も、そういったところにある。これは、2002年9月の小泉首相の訪朝時に金正日総書記が拉致を認め、謝罪したことからも分かるだろう。

日本の外交力を増すために、せっかくの議員立法で作った法律が、(そもそもアメリカのまねをして圧力による外交をするのが、日本外交の方向性としてよいものかという議論もあるが)運用における工夫の欠如によりその真価を発揮できず、国内的な自己満足で終わってしまうのではあまりにももったいないと思う。

前回は朝鮮の核実験の背景を、10月3日の朝鮮外務省の声明を背景にして考えてみた。これに対するhakhon氏のコメントを読み、朝鮮をめぐる国際関係の認識について、日本と朝鮮の間にかなり深い認識のギャップがあることを感じさせられた。朝鮮を理解しようとすると、朝鮮がどのように世界を認識しているかを考えないといけないが、その視点についての説明が日本にはあまりにも不足していると思う。

朝鮮には歴史的な教訓を背景にして、北東アジアの国際関係について独自の考え方があるように思う。小国がどのように大国の狭間で生きていくか、ということについて、朝鮮ではこれまでの体験から「銃口から政権が生まれる」的な発想があるのではないかと思う。

この考え方の根っこには、朝鮮が近代に入ってから周辺国(清、日本、ロシア)の干渉や日本の植民地支配、建国後の冷戦(朝鮮半島では本当に戦争になった)、アメリカ「帝国主義」、中国や旧ソ連の「民族利己主義」ないしは「社会帝国主義」など、数々の苦難を経験してきたことが背景になっている。

これまでの朝鮮の政治路線が、非同盟諸国をはじめとする世界の多くの国々(多くは朝鮮と同じような苦難に遭遇しているか、していた経験がある)に支持されてきたのは、このような朝鮮の多難な歴史からして自然なことである。

では、hakhon氏の指摘するような「自主国家」が朝鮮半島に誕生すること、そしてその過程について、多くの日本人はどう見るだろうか。

日本は明治維新以後、近代化を進めるにあたって、苦難を避けるためには、他国を犠牲にしても仕方がない、という路線に立って、「先進国」(あるいは「勝ち組」と言ってもいいだろう)になることを至上の目的としてきた。

そのために富国強兵政策をとり、国力に見合わない軍事投資を行い、日清、日露の戦争には何とか勝利したものの、日中、太平洋戦争と進むうちに負け戦をすることになってしまった。日本が戦後、「平和憲法」のもと、国際協調路線に努めてきたのは、それが国際社会の理想であったという側面もあろうが、過去の日本の政策が敗戦という結果に終わったことへの反省が大きいと思う。日本人が大きな被害を受けたから、富国強兵政策は誤りだったということが多くの日本人に共有された(戦後の政治家の発言などを見ても、周辺の国々に大きな迷惑をかけたという理由で前の大戦を批判する人よりも、前の大戦が結果的に誤っていたと考える人の方が多かったように思う)ということが言えるのではないだろうか。

敗戦後は、東西の対立が激化する中で、日本に重い戦争責任を負わせるよりも、アメリカの同盟国として東アジアの共産化を防ぐ役割を分担することになり、朝鮮戦争やベトナム戦争では、戦争特需もあり、経済復興を行うための好条件が重なった。しかも、戦前にある程度の工業化を進め、産業集積が進み、人的資源の開発も進んでいたため、戦後の発展はかなり急速に進んだ。(そういう意味では日本の戦前と戦後は連続しているといえる。そのおかげで戦後も「勝ち組」に入ることになり、現在に至っている)

日本はアジアに位置してはいるが、国際政治を考えるときの視点は、現実の経済の実態とは異なり、かなり以前から先進国のそれだった(戦前・戦中や戦後の復興期の苦労を知っている人は別だろう)といえるのではないだろうか(戦後の貧しい時代も、周辺国に対する差別感情は生きていたようだし)。現在、人口の多くを占める戦後生まれの日本人が、さまざまな苦難を経験しながらも国作りを行っている多くの発展途上国の心情を理解するには、それなりの勉強や理解しようという姿勢が必要で、直感的に朝鮮がおかれている状況を理解して、共感するというのはかなり難しいことだと思う。

朝鮮のこれまでの動きを見ていると、韓国に対しては盛んに「工作」を行っているが(これは、韓国もやっているのでお互い様だと思う)、それ以外には大規模な侵略的行為はしていない。ただし、日本に対しては拉致問題を行っているため、朝鮮が「自分たちの核武装力は自衛のためのものである」と言っても、日本の多くの人はにわかには信じがたいと思う。朝鮮が核武装をすれば、「何かあったら日本に核ミサイルを撃つのではないか」という不安を多くの日本人が持つのはある意味自然なことだ。(朝鮮が日本人を拉致したことで、朝鮮の「自主国家」建設という大義に大きな傷がついてしまった。)

日本は戦後一度も侵略的な戦争を行っていないし、最近では自衛隊を海外に派遣していると言ってもそれは平和維持か戦後復興がメインで、外国に脅威を与えるものではない。これが多くの日本人の一般的な認識だと思う。そのため、朝鮮から見ると、日本が朝鮮に軍事的、政治的な脅威を与えてきたという認識すら、多くの日本人にはないと思う。「唯一の被爆国」として核兵器に反対し、平和憲法を持ち、軍隊を持たず、侵略戦争を行わないことをモットーにしてきた日本ほど平和的な国家はない、と信じている人が多いのではないだろうか。

しかし、朝鮮から見れば、日本は日韓条約で韓国を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」であるとしている旧植民地宗主国であり、人口が6倍弱、GDPは推計方法にもよるが90~250倍、自衛隊という名の兵力への支出は世界第2位(その半分が人件費だという指摘はあるだろうが、それは朝鮮側にも見えにくいだろう)で、日米安保条約によりアジア最大の米軍基地が存在し、直接核兵器を持たずとも、核兵器を持ったアメリカに守ってもらっている。そればかりか、最近は「集団的自衛権」の議論が盛んであり、湾岸戦争ではインド洋で米軍に給油活動をし、イラク占領の多国籍軍に加わっている。朝鮮が日本のことを恐ろしく思うのも自然なことだろう。

ここに日本と朝鮮の間の大きな認識のギャップ(みぞ)がある。

朝鮮にとっては、日本の存在が非常に大きく見える。

日本にとっては、2002年9月17日の日朝首脳会談以降の拉致問題をめぐる朝鮮バッシングで、朝鮮の脅威のみが強調されたため、朝鮮の「小ささ」、「弱さ」が見えてこない。

日本にとって、朝鮮の核兵器は安全保障上の脅威である。しかし、日本と朝鮮の総合的な国力の差を考えたとき、朝鮮が日本に戦争をしかけるということは考えにくい。

日本が朝鮮に接する時には、朝鮮の持つ力を過大評価せず、相手が自らを恐れていることを念頭に置きながら接する必要がある。朝鮮が日本に対して拉致という主権侵害を行ったことは事実だが、そのことだけで頭に血が上ってしまってはいけない。外交を効果的に行うためには、相手の立場から自らを客観視する姿勢が必要だと思う。そして、小国を追い込まない寛容さ(これは弱腰とは違う)も必要である。日本に不足しているのは日本が(物質的には)大国であるという自覚と、その自覚に裏打ちされた謙虚さや余裕である。

私は日本がそういう雅量のある国になって欲しいと思う。

2006年10月3日、朝鮮外務省は核実験を行うことを宣言する「声明」を出した。今日はこの声明を題材に、朝鮮がなぜ核実験を行うに至ったのかについて、朝鮮がどのような理由をあげているのかを見てみることする。


1.アメリカに対する認識-変わらない敵視政策

「声明」では、アメリカの対朝鮮敵視政策が日ごとに増大しており、「わが民族の生死存亡を決する厳しい情勢が生じている」と認識している。また、7月のミサイル実験に対する国連決議の採択をアメリカによる「事実上の「宣戦布告」」ととらえている。

2006年6月26日~7月28日には環太平洋合同演習(RIMPAC)がアメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダ・チリ・ペルー・韓国・日本の参加で行われた。7月18日に原子力空母「エンタープライズ」がミサイル巡洋艦やイージス艦などを従えて釜山港に入港した。朝鮮にとっては、演習に加え、同時期にアメリカの軍艦が韓国に寄港したことを「北侵」の意図があるためだと捉えているのであろう。

そのような緊迫した情勢(朝鮮の受け止め方では)の中で、8月21日から9月1日まで米韓合同軍事演習「ウルチフォーカスレンズ」が行われた。この演習はコンピューターでのシュミレーションを中心とした演習だが、その目的を韓米連合司令部は「朝鮮半島偶発状況時の韓米連合軍の協調手続きなどを熟知するため」と発表した。そのため、「声明」では「朝鮮半島とその周辺で第2の朝鮮戦争挑発のための軍事演習と武力増強策動をよりいっそう狂ったように繰り広げている」と非難している。アメリカは朝鮮に対して軍事攻撃をしないとの立場を維持しているものの、朝鮮から見れば、口では攻撃をしないといいながらも、その機会を虎視眈々と狙っていると考えているのだろう。(しかし、これまでの「チームスピリット」をはじめとする演習が実際に「北侵」につながったことはない。)

北東アジアの国々の中で、さしあたってアメリカからの軍事攻撃を受ける心配を持っている国は朝鮮以外にはない。朝鮮は常にアメリカからの軍事攻撃を受ける可能性があり、在韓米軍をはじめ、自らを対象として配置されている兵力が存在すると感じている。朝鮮にとって、アメリカが「攻撃を行わない」と言ったとしても、朝鮮の立場からは攻撃を現実に行うことができる手段をアメリカが持っている以上、言葉通りに信じることができない。

RIMPACやウルチフォーカスレンズといった軍事演習は、定期的に行われているものであり、今現在、朝鮮に対する軍事攻撃の可能性が増したとは言えない。しかし、そのような軍事演習が、朝鮮への軍事攻撃があり得るとの前提に立って立案され、実施されていることが、朝鮮にとっては耐えられないのである。ここから、朝鮮は「技術的可能性=軍事的可能性」という思考法をもっているということがわかる。(とすると、アメリカ本土まで核弾頭を運搬可能な弾道ミサイルとそのミサイルに搭載可能な核弾頭が開発されれば、朝鮮はアメリカに軍事攻撃を行う計画をたてるのだろうか?それはわからない。)


2.核兵器は「自衛的戦争抑止力」

「声明」では、朝鮮の核実験は「自衛的戦争抑止力を強化」するために行われるとしている。そのために、「安全性が徹底的に保証された核実験」を行うとしている。そして、核兵器の先制使用を否定するとともに、「核兵器を通じた威嚇と核の移転を徹底的に許さない」としている。そして、今後は「朝鮮半島の非核化を実現し、世界的な核軍縮と最終的な核兵器撤廃を推進するため多方面にわたって努力する」としている。

抑止力にこだわることについて「声明」は「自らの頼もしい戦争抑止力がなければ人民が無念にも犠牲になり、国の自主権が余すところなく翻弄されるというのは、こんにち、世界のいたる所で生じている弱肉強食の流血の惨劇が示している血の教訓である」としている。これはおそらくイラクのことを念頭に置いているのだろう。

朝鮮が攻撃されなかったのは、朝鮮の抑止力(アメリカ軍が地上戦で攻めてこない以上、具体的にはアメリカの攻撃を受けたときに駐韓米軍と韓国に打撃を与えることができる力と考えてよいだろう)が一定程度以上あったためだと考えているように思われる。

朝鮮の核兵器の性格について、「声明」では、「われわれの核兵器は徹頭徹尾、米国の侵略脅威に立ち向かって国家の最高の利益とわが民族の安全を守り、朝鮮半島で新たな戦争を防ぎ、平和と安定を守る頼もしい戦争抑止力になるであろう」と規定している。また、「朝鮮はつねに、責任ある核保有国として核拡散防止分野において国際社会の前に負った自身の義務を誠実に履行するであろう」とも言っている。

朝鮮は自らを核保有国であると宣言するのと同時に、核拡散防止の義務を履行すると宣言したことは、アメリカが核拡散を警戒していることと関連している。


3.朝鮮半島の非核化は朝鮮半島からの外勢の除去

「声明」では、朝鮮は「朝鮮半島の非核化を実現し、世界的な核軍縮と最終的な核兵器撤廃を推進するため多方面にわたって努力する」とも言っている。朝鮮が考える「非核化」とは、何だろうか。「声明」では、「われわれの一方的な武装解除につながる「非核化」ではなく、朝米敵対関係を清算し、朝鮮半島とその周辺からすべての核の脅威を根源から取り除く非核化」であるとしている。

朝鮮の考える朝鮮半島の非核化とは、朝鮮が持っている核兵器を放棄することを単純に意味しない。アメリカが朝鮮に対する敵視政策をやめ、朝鮮半島とその周辺からアメリカ軍がいなくなってはじめて、朝鮮の考える非核化の条件が満たされると考えてよいだろう。

朝鮮には自らの核兵器開発によって、朝鮮半島が戦争の惨禍から救われているという発想もある。7月12日に第19回南北閣僚級会談が釜山で開かれた際、北側団長が「北の先軍が南の安全を図っており、南の広範囲の大衆がその恩恵を受けている」と発言した。この発言を敷衍すると(あるいは妄想をめぐらせると)、外勢の影響力を朝鮮半島から完全に排除して、南北が自主的に民族の将来について話し合い、その結果を実行に移すことができる環境こそ、朝鮮半島の非核化の条件である、と言うことができるかもしれない(私自身、そう確信しているわけではないが、そう考えないと権虎雄団長の発言はつじつまが合わない)。

10月9日の朝鮮の核実験で、朝鮮が得たものについては、昨日書いた。今日は、朝鮮が今回の核実験で失ったものについて考えてみたい。

朝鮮が失ったものは、大きく分けて2つである。

1.朝鮮はよき理解者と友人を失った。

核実験を行ったことで、朝鮮の実情や朝鮮人の心情を知り、行動の真意を斟酌し、擁護してくれた多くの人々を窮地に立たせ、朝鮮から一時的にしろ離れざるを得ない状況に追い込んでいる。

ひとつの例が、在日朝鮮人である。帰国運動で兄弟姉妹が朝鮮に住んでいる人々も多いので、朝鮮の事情も、その大変な生活も知っている人が多い。それでも、さまざまな理由で朝鮮に対して共感を持ってくれていた人々が、今回の核実験により日本社会で暮らしにくくなってしまった。朝鮮学校の生徒が通学中に襲われる事件が日朝関係の悪化時には起こることが多く、身の危険を感じる人もいる。

10月11日現在、朝鮮総連のホームページ(日本語版)には、核実験についてのニュースも論評も掲載されておらず、朝鮮語版には核実験についての『朝鮮新報』のニュース記事へのリンクがあるだけで、論評は掲載されていない。朝鮮総連が公然と今回の核実験を正当化すれば、日本社会で総連のメンバーが円滑な日常生活を送ることが難しくなってしまう。(人の顔に「総連」と書いてあるわけではないので、朝鮮風の名前がついていれば、在日韓国人でも在日朝鮮人で総連に入っていない人もとばっちりを受ける可能性は高い。)これを機に、総連を脱退する人も出てくるだろう。

もう一つの例が、中国や韓国に代表される、朝鮮の立場を理解し、朝鮮が国際社会において「名誉ある地位」を占められるようにする政策をとってきた国々である。中国は隣国であり、中国革命において共に戦った記憶もあり、アジアの大国として朝鮮を擁護する立場を維持してきた。国家間の関係は各国の利益を最大化するという目的で動いているのといえばそれまでだが、中国には中朝間の関係を悪化させないようにするために尽力してきた「友人」が多くいたはずだ。それなのに中国の面子を朝鮮はあっさりとつぶしてしまった。

韓国は同じ民族の国として、朝鮮の人々の心情を理解し、人々が困窮している現状を忍びなく思い、「統一費用支払の先延ばし」などと批判をされながらも人道的援助や南北経済協力を進めてきた。政治的にはいろいろな思惑はあっただろうが、包容政策がここ7年間ほど維持されてきたのは、韓国の人々の「北の同胞個人には罪はないから、飢えさせるのは忍びない」という気持ちであった。朝鮮は核実験を行うことで、これまで自らに対して同情的であった人々の感情を害するだけでなく、その立場をも危うくした。南北経済協力は当分の間、停止せざるを得なくなるだろう。

朝鮮の核実験は、これまで朝鮮に対して融和的であった国々の政策を根本から覆す契機となる。核保有という「成果」と引き替えに、朝鮮はこれまでとは異なった、世界に生きることになるだろう。


2.朝鮮は大義を失った

朝鮮の核開発の目的は、金融制裁を解除せず、あくまで朝鮮が先に丸腰になることを要求するアメリカに対して、究極的にはミサイルに搭載可能な核弾頭を開発し、核保有国になることによって、有利に交渉を進めるためのものだと考えられる。また、副次的には通常兵力では太刀打ちできない韓国に対する優位性を確保するための手段だと考えることができるだろう。(後者については朝鮮は公式には認めていない。例えば、核実験に関する朝鮮外務省の声明を参照)

つまり、朝鮮は核保有国になることにより、アメリカなど世界の主要国と対等の地位につくことができると考えているようだ。(南北間の軍事力の格差も乗り越えるという副次的効果も、公式には認めていないがあるのではないかと思う)しかし、朝鮮の核ミサイルは現状ではアメリカ本土には到達しない上、核開発を行った上でミサイル発射の準備をすれば、アメリカの攻撃を招くことが容易に予想される。中距離ミサイルに核弾頭を装着すれば日本や中国、韓国、ロシア極東を射程に入れるが、それをすれば、北東アジアの軍事的緊張が一挙に高まる。核兵器の開発が、対米交渉のためのカード以外の目的を帯びていないという保証がないため、周辺国は最悪の事態に備えることになる。

核実験を行ったことで、多くの人々が朝鮮の核開発の意図を怪しんでいる。「帝国主義に反対する発展途上国」という道理を捨て、なりふり構わない軍拡国家と認識されるようになってきている。これまで自らがアメリカをはじめとする先進国の「力の論理」の不当性を主張していたのに、まさにその力の論理を追求する勢力に入ってしまったとすれば、朝鮮を「アメリカにいじめられながらも、自主路線を追求する非同盟国家」と認識していた人々は、朝鮮に裏切られたと感じるだろう。

アメリカに対して公然と反旗を翻し、朝鮮と関係を親密化させ、ミサイルの拡散などが懸念されていたベネズエラでさえも、このような力の論理を公然と掲げる行為に対しては(内心快哉を叫んでいるかもしれないが)反対せざるを得なかった

朝鮮の個々の行為に対しては疑問を持つことがありながらも、朝鮮のアメリカをはじめとする先進国の身勝手な姿に対して決然と対抗している点に共感を持ち、内心応援をしていた人々も、朝鮮がアメリカとの交渉の手段とはいえ「朝鮮半島の非核化」という大義を捨てたこと(やむを得ない措置であり、大義は捨てていないと主張はしているが)に対して、厳しい視線を向けるだろう。国際社会における朝鮮の言説の力(建前としての)は相当減少すると予想せざるを得ない。

『朝鮮新報』ホームページによれば、朝鮮中央通信が2006年10月9日に地下核実験を安全に行ったという報道があったことを報じた。(10月11日に日本語の記事が出た)

この地下核実験の技術的な性格は、失敗の可能性や本当は核実験ではないなど、さまざまな説があり、現在解析中ということなので、一般論しか話せないが、もしこれが本当の核実験であったとして、朝鮮は何を得、何を失ったのかについて考えてみたい。

今回は、朝鮮が得たものについて考えてみたい。

1.対内的側面
これまで朝鮮は核兵器についてアメリカの敵視政策に対して国を守るための武器であると主張してきたが、これがある程度完成したと受け取られるであろう。それにより、朝鮮の核プログラムが一応成果を上げたことが国民に認知され、軍事優先の経済政策や「先軍政治」に一応の成果があったことを宣伝できる。そして、今後も国民経済よりも軍事部門を優先する経済政策をとることができる。

2.対外的側面
核実験を成功させ、核保有国であることを明確にすることで、朝鮮は世界の先進国、大国しか(実際にはイスラエルやインド、パキスタンなどが保有しているが)参加できない核兵器保有国のリストに追加されることになった。これにより、軍事面では朝鮮の技術レベルが一定のものであることが明らかになり、国威が発揚される。

ここにあげた「得たもの」は、朝鮮国内の観点から見たものであり、外から見ればそれが得たものなのかどうかはよく分からないかもしれない。しかし、朝鮮の経済政策の結果である国民経済の疲弊を考えると、それだけの対価を払った結果が求められるのである。

1953年の朝鮮戦争休戦からこれまで、1990年代中盤の一時期を除いて一貫してとり続けてきた重工業(≒軍需産業)優先の経済政策により、朝鮮の国民経済は極めていびつな形になってきている。すなわち、国力に見合わない軍需産業を持つ一方、国民生活を支える軽工業や農業の発展が犠牲になってきた。

国民生活を犠牲にして軍需産業に投資をしてきたのだから、当然そのアウトプットが犠牲を甘受してきた国民が理解しやすい形で出てこなければならない。そうしなければ、これまでの政策の正統性が吹っ飛んでしまう。

自分たちの生活が苦しいのは、「アメリカ帝国主義」の「圧殺策動」であり、強力な軍事力があるからこそ、アメリカのいいなりにならずにすむのだ、と教えられてきた朝鮮の一般市民にとって、核実験が成功したという知らせは、アメリカも自分たちの力を認めて、まともに相手をしてくれるようになる(=国交正常化をしてくれる)道に一歩踏み出したととられるだろう。

2003~2005年までの3年間、朝鮮経済は少しずつ回復の様相を見せていた。電力事情や石炭事情が緩和され、平壌市内だけでなく、地方都市でも電灯の光を見ることができるようになってきていた。工場の稼働率も依然低いものの若干向上し、中国との貿易の活発化で、中国製の衣類や電気製品も手に入るようになってきていた。2005年には、農業生産が大幅にアップし、国家による食糧供給の事情も若干ではあるが改善されたようである。朝鮮の一般市民の感覚からすると、ここ数年間の暮らしは、格差が相当出てきたというマイナス面があるものの、全般的には相当改善されてきたのである。

生活が若干ではあるが向上し、国際的な名声も手に入れて、アメリカと堂々と戦っているという希望に満ちあふれた姿が今の平壌の姿ではないかと思う。(もちろんそう思っていない人たちもたくさんいる。外の情報を知っている人たちは、1941年の太平洋戦争の開戦時の日本の同種の人々と同じような気分だろう)それがこれからどうなるのかについては、別にまとめたいと思う。