2008年5月アーカイブ

2008年3月24日、上海である会議に参加した。

この会議のホストになったのが、上海にある民営企業「均瑶グループ」だ。元々は食品(乳業)会社だったが、現在では大きく発展し、航空会社まで持っている。このグループの本社ビルで会議は行われた。会場は最上階だったので、建物の外側にベランダがついており、外の風景を楽しめるようになっていた。

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均瑶国際プラザから見た上海市街

このビルは元のフランス租界に近いところに位置しているので、西洋風のしゃれた低層建築が近くに多かった。遠くに見えるのは、オフィス街で、こちらは高層ビルがにょきにょき。上海は昔の建築物や街の雰囲気を生かす形で都市計画を行っているようだ。そのせいか、全体として大きく変わっているはずなのに、北京で感じるような「自分がどこにいるかわからない」感覚はあまり感じなくてすむ(もちろん、浦東新区に行けば、事情は違うけれど)。

2008年3月22日、中国・上海を流れる黄浦江を観光した。

上海を訪れるのはおよそ1年半ぶり。1987年に初めて訪問して以来、5~6回目の訪問だと思う。大阪にいたときには、大学で会う中国人の多くが上海や江蘇、浙江出身だったので、気分的には親しみがあるのだが、2001年に新潟の職場で働き出してから出張で行くのは、東北地方(遼寧、吉林、黒竜江)がほとんど(南限は北京、天津)なので、大変新鮮だ。

浦東開発が始まってから、上海の夜景もずいぶんと変わったが、上海に行っても外灘にはあまり行く機会がなく、遊覧船に乗るのは、実は今回が初めてだった。

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黄浦江から見た浦東のビル

黄浦江から見た浦東は、各種の高層ビルがそびえ立つ、大都会を象徴するような場所だった。初めて来たときには高層ビルなどひとつもなかったが、この20年間で全く異なる場所に変貌した。

遊覧船は、各地から上海でやってきた人々でいっぱいだった。このお上りさんの集団は、1987年に来たときにも見かけた。上海が中国の先端を行っている都会だということは、おそらくずっと前から変わっていないようだ。おそらく、20世紀の前半からそうだったのだろう。

同じように大きく変わった街に北京があるが(中国全土が変わっているといった方がいいかもしれない)、北京の変化と上海の変化は大きく変わったという点では似ているが、細かいところを見ていくとずいぶんと違うような気がする。

上海は、確かに最新建築の高層ビルやショッピングモールなどが増えているものの、昔からの路地はそのまま残っているところが多いし、大通りから通りを1本入ると、昔ながらの市場があったりする。それに対して、北京は大規模開発が多く、昔ながらの街並みが残っているところが少ない。

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飛鳥II

遊覧船に揺られていると、美しくライトアップされた船が目に入った。日本の客船「飛鳥II」だった。埠頭につながれていた状態だったので、遊覧船は至近距離まで近づいていった。豪華絢爛、一度乗ってみたいと思わせる雰囲気だった。

1987年に始めて上海に来たときは、大阪港から「鑑真」号に乗ってきた。上海港の国際ターミナルから一歩足を踏み出したときの衝撃を思い出した。当時は人々の服装も、今のように多様化しておらず、紺色や青、灰色、黒といったモノトーンの服が多かった。日本との余りの違いに怖じ気づいてしまい、このまま船に乗って大阪に引き返そうと思ったくらいだった(残念ながら船は上海に2日間停泊するため、最低でも2日間は上海にいる必要があった。上海ではホテルが見つからず蘇州に逃げたが、蘇州の街の居心地がよかったので、次の日には上海での衝撃を忘れてしまっていた)。

思い出に浸っていると、昔乗ってきた鑑真号のような、少しくすんだ船体(あくまで飛鳥IIに比べての話だが)の船が目に入った。大阪と上海を結ぶ「蘇州」号だった。「始めて上海に来たときはあんな感じの船で来たなぁ」という、自分と中国との付き合いの原点に戻ってきた思いがした(まぁ、こういう思い出に浸ることができるようになったということは、自分もおじさんになった、ということなのだろう)。

丹東を18時31分(中国時間)に発車した列車は、途中鳳凰城と本渓に停車し、瀋陽には22時09分に到着する。

丹東発車後、しばらくして夕食をとりに食堂車に向かった。現在でも中国の中長距離列車には食堂車が連結されており、温かい食事を取ることができる。国際列車は国内列車に併結されているが、食堂車は国内列車と国際列車の境界ではなく、国内列車の座席車と寝台車の境界に位置している。そのために、国際列車から食堂車に行くためには、国内列車の2等座席車(硬座車)を5両分歩いていかなければならない。

さらに、硬座車の乗客が国際列車に入り込まないように、国際列車と国内列車の境界の扉が施錠されている。仕方がないので、乗務員を呼びに行き、扉を開けてもらう。「帰ってくるときには、扉をたたけば開けてやる」というので、少々不安になりつつも空腹に負けて食堂車に向かう(なぜ不安かというと、以前ロシアの車両が併結されているときに同じように食堂車に行き、その帰りに通せんぼを食らったことがあるからだ)。

丹東~北京を結ぶK28急行列車の食堂車は北京の列車段(運転所)が担当している。そのため、料理は北京風だ。エビと卵とキュウリの炒め物(木須蝦仁)とタマネギと牛肉の炒め物、ご飯・スープセット、ビールを注文する。しめて65元。肉や野菜の味は、朝鮮の方が濃かったような気がした。でも、久しぶりの中華料理なので、美味しくいただいた。

列車はほぼ定刻に瀋陽駅に到着した。列車はこれから北京まで走り続けるが、筆者は瀋陽で列車とはお別れだ。雪が降りしきる中、まだ低床式の瀋陽駅のホームに降り立った。


1990年代後半以降、長らく電力事情が悪かったことから、列車が遅れることが多かったのだが、今回はほとんど遅れずに、15時23分に新義州に到着した。いつもより揺れるなと思ったのは、速度が速いせいだった。最大で2時間程度遅れることもあっただけに、平壌~新義州間225キロの地域において全般的に電力事情が好転していることを感じた。

朝鮮側国境駅である新義州駅到着後は、約2時間半の停車時間の間に、出国審査、検疫、税関検査を車内で行う。税関検査も車内で行うため、X線検査機などは使わずに、荷物を直接開けて検査をする。この検査はかなり厳格で、列車が遅れずに到着すると余計に厳格になる。なので、列車が時刻通りに運行することは旅行者にとってありがたくもあり、また迷惑でもある。

新義州駅を出発した列車は、ゆっくりと鴨緑江にかかる橋を越え、7分程度で中国・丹東駅に到着する。到着後、同じように入国審査、検疫、税関検査を車内で行う。中国の税関検査は果物や肉類を持っていない限りほぼフリーパスで、検疫も体温を測るだけだ。いつもながら、余りの簡単さに拍子抜けしてしまう。入国審査が終わり、パスポートを入管職員が配ってくれれば列車から降りて、散歩をしてもよくなる。その後、中国側の国内列車の車両を連結する作業があり、国内列車の乗客が各々の車両に乗り込むと少しして発車となる。

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