2008年6月アーカイブ

2008年5月10日~13日、中ロ国境地方を旅した。

今回は、中国・吉林省延辺朝鮮族自治州の州都、延吉を起点に琿春経由でロシアのウスリースクを往復するルートだった。

5月10日の朝6時、延吉市の東北亜バスターミナルに行った。月曜~土曜の朝7時05分に延吉からウスリースクに向かう国際バスに乗るためだった。

時刻表を見ると、確かに7時05分発のウスリースク行きの表示が出ている。国際バスの切符売り場の表示が出ている窓口で、「ウスリースクまで1枚」と言ってみた。そうすると係員が何気なく「昨日バスが来なかったので、今日はバスが出ない」と言う。なぜそうなのか尋ねてみても、「わからない」の一点張り。この事態の謎はあとで解けるのだが、とりあえずホテルにとって返す。

延吉発ウスリースク行きは月、水、金発が中国のバス、火、木、土がロシアのバスによって運行されている(ウスリースク発延吉行きは国籍が逆となる)。なので、金曜日の夕方にロシアのバスが延吉まで来なかったことになる。

ここで考えられる可能性は、ロシアのバスが
(1)ウスリースクを出なかった、
(2)ウスリースクを出たが、途中故障等で引き返した
(3)琿春まで行ったが、延吉までは来なかった
ということになる。

対処方法としては、(1)と(2)の場合、ウスリースク行きのバスに乗ることはあきらめて、琿春を午後に出るスラビヤンカかクラスキノ行きのバスに乗ることだ。(3)の場合は、琿春を9時30分に出発するダイヤになっているので、急いで琿春まで行くこととなる。このときには(3)の可能性は少ないと思ったので、とりあえずホテルに戻り、対策を考えることにした。

今回の目的地はウスリースクなのだが、琿春を午後出るスラビヤンカ行きに乗って、スラビヤンカまで行った場合、そこから先の接続があるかどうかわからない。クラスキノ行きに乗ると、おそらくクラスキノで1泊することになる。クラスキノで泊まったことがないので、一度泊まってもいいが、クラスキノからウスリースクまでは相当遠く、最短で翌日の朝早く出て昼前にウスリースクに着く計算になる。

中国とロシア・沿海地方の間には時差があり、夏時間で3時間、冬時間で2時間沿海地方の方が進んでいる。そのため、中国時間の13時は沿海州時間の16時となる。琿春発スラビヤンカ行きのバスは、13時に琿春を出る(クラスキノ行きは13時30分)が、国境を越えてロシアに入った瞬間(ロシアの出入国施設までは大体1時間ほどで着く)、17時くらいになってしまう。

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延吉・東北亜バスターミナルに掲示されてある国際バスの路線図


結局、国境を越えるのは少しでも早いほうがいいだろうとの判断で、琿春発13時のスラビヤンカ行きバスに乗ることにした。琿春まではバスで2時間ほど、少し早めに出発し、琿春で昼食を撮ることにする。

琿春には11時30分ころに到着した。バスはバスターミナルの向かいの道路で客を降ろすので、一旦バスターミナルに入り、スラビヤンカ行きバスの切符を買う。延吉から琿春まで約100キロの距離が21元(約325円)だが、琿春からスラビヤンカまでの110キロは235元(約3640円)と10倍ほどの値段となる(ちなみにロシア発の値段はこの1.8倍以上)。

切符を確保したあとは、食事。バスターミナルの筋向かいにある餃子屋さんで水餃子と冷菜、ビールを注文する。25元ほどでお腹いっぱいになる。東北の水餃子は美味しい。ガラス張りのキッチンで注文に応じて餃子を包み、ゆでるので、熱々を楽しむことができる。

バスターミナルに戻り、バスの出発を待つ。待合室にはロシア人の買い出し客とおぼしき人が8人ほどいた。一人はLG製の大型液晶テレビを抱えていた。クラスキノやスラビヤンカといった国境地方では、日常的に中国まで買い出しに行くようだ。

出発の5分前になって、やっとバスが入ってきた。ロシア国籍の韓国製中古バス。中国国籍の国産バスに比べると、年季は入っているものの座席の座り心地などはこちらの方がよい。バスは大量の買い出し荷物を腹に詰め込まれ、ほぼ定刻に琿春のバスターミナルを出発した。出発間際に、乗客がビールを回し始めた。私もご相伴にあずかる。前半は運が悪く、唖然とした一日だったが、後半は運がついてきたようだ。

南京大虐殺記念館を見た後は、中華民国時代に総統のオフィスがあった総統府へと向かった。

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南京の総統府

この総統府の場所は、辛亥革命後の1912年に「南京留守府」として建設され、1927年9月に国民政府が業務を開始し、総統府と呼ばれるようになった。その後、1937年の南京陥落後は日本軍の施設として使われ、1946年に再び国民政府の所在地となり、1949年4月23日の南京解放で共産党軍に占領される。中国の近代のめまぐるしい変化を見守ってきた建物だと言うことができるだろう。

ここでの発見は、中国革命というものは、共産党が始めたのではなく、あくまでも1911年の辛亥革命から連続した一連の出来事である、という当たり前の事実の再発見だった。

日本でも1945年を境にして、歴史を区切って考えることが多いが、日本人のほとんどが1945年に死んだわけではなく、人的にもその人たちが持っている思想の面からも「戦前・戦中」と「戦後」は連続している。中国も「新中国」の成立前後で歴史の断絶があるわけではない。

総統府館内の展示は、そのような連続性を前提としたものであり、「新中国」成立前の中華民国やその周りにいた人たちの描き方は基本的に「反動」ではなく、「革命勢力」(もちろん、そこに名前が出ているということは、共産党から見て許容できる人なのだが)と描かれている。

蒋介石の執務室だった部屋は、写真撮影禁止だが、部屋の中には青天白日満地紅旗が(当時、五星紅旗はまだなかったから、当たり前といえば当たり前だが)飾ってある。ちなみに、この元執務室、監視要員は誰もいないので、写真を撮ろうと思えば撮れる。実際に、多くの人たちが物珍しそうに青天白日満地紅旗を携帯電話で撮影していた。

現在、大陸と台湾の確執は確かに激しく、戦争の危険を排除できないが、元はといえば国民党も共産党も、清朝に反対して革命を起こす勢力であり、中国の近代化を推進してきた勢力だ。1911年に、早くも皇帝を廃してしまった中国は、政治原理の点ではかなり早く近代化を達成したと言えなくもない。


総統府を訪れて感じたのは、アジアの現在を考えるとき、現在から前後100~200年くらいのスパンで物事を考えないと、多くのものを見落とすのではないか、ということだった。

南京駅で列車を見た後は、南京大虐殺記念館を訪れた。南京駅からだと遠いのと、渋滞に巻き込まれる危険性があるため、途中の新街口まで地下鉄で移動した。

南京の地下鉄は、2005年開業で駅、車両ともに新しい。表示板やピクトグラムは香港のMTR風だ。中国の南方の地下鉄は、香港がベンチマークになっているのだろう。駅からはタクシーで記念館に向かう。電子地図であらかじめ道路を調べてあったが、タクシーは2キロ弱南京駅方向に走ってから西へと向かった。


記念館に着くと、そこには広大な敷地が広がっていた。現在は入場無料になっていて、多くの国内観光客が訪問していた。参観順路ではないが、まず万人坑に行った。万人坑は日本軍が虐殺された人を埋めたとされる場所を発掘したもので、人骨があちこちに見える。

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万人坑の外側

参観者のほとんどが国内観光客だった。多くの若者が携帯電話内蔵のカメラで人骨の写真を撮ろうとして警備員に注意されている。警備員は大声を出すだけで、それ以上は何もしない。なので、写真撮影は怒られながらも無事に終了しているようだった。中年以上の人たちは、ある人は眉をひそめ、ある人は感心がないようだ。共通しているのは、若者たちを注意しないこと。

中国の若者たちにとって、日本の侵略や住民虐殺は、すでに教科書で教えられる「歴史」になりつつあるのだろうか。それとも単に物見高いだけなのか。日本帝国主義の侵略を告発しているはずの中国人が、おそらく自分たちの同胞であろう死者に対する冒涜にも近い行為を行ったり、それを黙認していることを、万人坑という、ある意味での「聖地」で目にしたことは、私にとってショックだった。

日本では相変わらず万人坑が本物かどうかという議論が行われている(実際に何があったのかを確定する作業自体は重要であると思う)が、そういうことに集中するあまり、中国で起こりつつある、新たな変化を見逃してはいないだろうか。私は「反日」を叫ぶ人たちよりも、情操に欠けた人々の方が、隣人としては有害だと思う。


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南京大虐殺記念館のモニュメント(新)

万人坑を見た後は、本館に戻り、歴史資料の展示を見た。展示は中国政府の公式的な歴史観を反映してはいるが、ことさら日本に対する敵意はないように感じた(それでも、これを「反日」だと思う人は多いのだろう。「反日」が反日本帝国主義であればそれはイエスだが、反日本であるとは私には思えなかった)。どうすればこのような不幸な歴史を再び繰り返さないのか、という視点から構成されているように感じた。

ただ、「事実」の正確さを重視する日本の感覚から、展示された史料(特に日本語史料)を見ると、もう少し他のものを使った方がわかりやすいのではないかという点がないわけではなかった。当時の日本の新聞記事などが展示してあるが、説明したい物事と記事の内容が離れているものも多かった。おそらく、日本語の史料収集に精通した学芸員が不足していたのであろう。

その点では、沖縄にある平和祈念資料館の展示の方が、日本帝国主義の生成と成長、第2次世界大戦での敗北までの歴史を、適切な史料に基づいて総合的に解説しているように思う。ただ、おそらくこれは、私が歴史を語る上での日本の「作法」に慣れ親しんでいるからであって、他の国の人が見たときにどう感じるかは、また別の問題だろう。


200803nanjing_m03.jpg南京大虐殺記念館のモニュメント(旧)

本館を出て、記念館の敷地内を散策した。多くの国内団体観光客がガイドさんの案内に従い集合している。老若男女いろいろな集団がある。年齢層の高い集団は、物思いにふけったり、小声でおしゃべりをしている人が多かった。中国は老人でも声の大きい人が多いが、どうも記念館の敷地中では力が出ないようだった。

40代以下の人たちは、元気いっぱいの大声でおしゃべりをし、電話をかけている人や、いちゃいちゃしている若者カップルなど、普段目にする中国人の行動をしていた。私の目には、50代以上の中国人と40代以下の中国人は、全く別の国から来た人のように見えた。

この「発見」が、南京大虐殺記念館に行って得た最も大きい収穫だったように思う。

もし、上海で1日時間が空いたら、ぜひ南京に行ってみることをおすすめする(ただし、南京は中国三大猛暑都市(三大かまど)の一つなので、夏はおすすめしない)。

2008年3月25日の午前、上海から2時間20分(遅れ約10分)の旅を終え、南京駅に降り立った。列車を降りるときに、中国のあちこちの駅で繰り広げられている大量の旅客が出入り口で押し合いへし合いをする事態を予想していたが、南京の駅ではドアの前に列ができており、降りる乗客を待っていた。

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CRH-2「和諧」号乗車を待つ乗客の列


中国の鉄道駅では珍しい光景に、どのように整列乗車が行われているのかが気になった。幸い、南京駅には私が降りた列車の後にも、何本か「和諧」号列車が続行しているようだった。

日本の新幹線駅では、ドアの乗車位置を示す電光掲示板が設置されているが、南京駅にはそれがなかった。その代わり、各車両の乗車位置に係員が立ち、案内・誘導を行っていた。

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各車両ごとに係員が案内・誘導している

とはいえ、最長運転時間が10時間以内の「和諧」号の乗客は、ビジネスマンや中距離利用の乗客が多いようで、荷物も少ない。全席指定で途中駅から乗車しても座席が確保されている(一般の列車の場合、「無座」という立ち席乗車券の場合が多い)ためか、「早く乗り込まなければ!」という切迫感がない。

もともと江南地方を運行する中国版インターシティーとも呼べる中距離旅客列車は、列車間隔も短く、当日でもきっぷを買える乗り物だったことも関係しているだろう。

乗降の様子は、以下の動画を見ればわかるが、それなりに秩序だっており、停車時間が2分でも大丈夫なようだ。

中国の列車といえば、列車に乗り込むのが一苦労だった時代が長く続いたが、「和諧」号はその名の通り、乗り込むときから「和諧」の雰囲気にあふれている。

ただ、この列車の運賃が一般列車の二倍以上する(上海〜南京間、二等席でも93元。一般急行の硬座(普通車)は空調付きで41元、空調なしで24元)。ある程度以上の収入がある中流層が利用する列車であると考えると、「和諧」号という名前自体が空虚なものなのかもしれない。しかし、このような列車を一般的に利用できる中流層が中国に生まれていることは、中国の改革開放政策の成果だろう。

2008年3月25日、上海での会議の翌日、出張日程が一日空いてしまった。せっかくの機会なので、今までいったことのない南京に「和諧」号(CRH-2)に乗って行くことにした。

上海から、南京までは鄭州行きのD86次列車に乗った。南京止まりの列車のきっぷが売り切れで、切符売り場の人が「鄭州行きならある」というので、寝過ごす危険性があるものの(次の停車駅は185キロ先の安徽省・蚌埠)、行けないよりはましなので、切符を買った。中国の列車は主要駅では5~10分くらいは停車するのだが、「和諧」号は日本の新幹線並みの1分停車とか2分停車なので、列車を降りるのも一苦労だ。


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CRH-2 「和諧」号

和諧号は8両1編成で、2編成併結して16両で走ることもある。当初は1等車が1両、2等車が7両(半室のビュフェ含む)で構成されていると伝えられていたが、1等車の需要が高いらしく、2両になっていた。

1等車の窓配置は日本のE2系1000番台のグリーン車と同じ配置なのだが、後から増設した1等車は2等車と同じ窓配置で、シートピッチも若干狭いようだった。座席は日本のものと同じだが、カーペットが敷かれていなかった(本物の1等車はカーペット敷き)。

上海を出た列車は、市内の線路をゆっくり走り、郊外に出ると急に速度を上げた。最高速度200キロだと思っていたのに、250キロで走る区間が若干あった。無錫から先の区間は、160キロくらいで走る区間が多かった。在来線を高速運転させるので、あちこちの駅で貨物列車や一般の旅客列車を追い越した。途中の工事現場で徐行したため、10分程度遅れたが、遅れはそのまま回復することなく、10分遅れで南京に着いた。ダイヤ編成には相当の無理があることを感じた。

南京駅では、整然と並んで降りる人を待っている乗客の列が見られた。他の列車で見られるような押し合い、へし合いをしていては、2分停車で乗降が完了しない。日本の駅の新幹線ホームには、乗車位置を知らせる表示器が設置されているが、中国の駅には全くそういうものがない。ではどうやって人々は並んでいるのだろう。その秘密を、南京駅で見た。

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