つれづれなるままに…の最近のブログ記事

前回の書き込みに対するhakhon氏のコメントに対して、どのように回答しようかと考えながら、10日が過ぎた。アジアの国々が「国家優先」になりがちであることについて、どう認識すべきか、また日本はどのような立ち位置になるべきかについていろいろと考えてみた。

多くのアジアの国々は、外国に侵略されたり、植民地になったりした歴史を持っている。そのような国では、「自分たちの国を持つこと」が長い間の夢であった。その夢が実現してからも、政治的・経済的に大国に翻弄される時代が長く続き、経済的にも苦しい時代が長く続いている国が多い。

文化的な「伝統」や歴史的な経緯、民主主義が持つさまざまな問題(民主主義は万能ではなく、それ以外の方法よりもより「まし」だということで選択されているわけだから)などから「国家」を優先させる主張が通りやすいこれらの国々では、一定の経済的基礎ができ、多様な意見が存在することによって、国の独立が危険にさらされることのないという客観的な環境と主観的な自信の両方が得られてはじめて、国家を相対視できるようになり、民主主義が根付いていくようになるのではないかと思う。

民主主義が根付いていないことを非難するのは簡単だが、日本も大正デモクラシーで勝ち取った成果をうまく生かせず、日中戦争、太平洋戦争に突入し、敗戦した結果、民主主義体制を手に入れることになったわけなので、ただ非難するだけでは説得力を持たないだろう。欧米諸国の非難も、民主主義を支えた経済の基盤にあった数百年に及んだアジアやアフリカ、アメリカでの植民地支配を考えると、彼らがその部分に言及することなくしては、説得力を持たないと思う。

日本は、明治以降の侵略と、朝鮮・台湾の植民地支配に対してしっかりと清算を行うことによって、植民地支配によって得られた富から離れることのできない(そして、その問題については知らないふりをせざるを得ないかわいそうな)欧米諸国とは違った、発展途上諸国により近い立場に経つことができるようになる。民主主義や人権について、相手を非難するのではなく、国を発展させ、政治のあり方をグレードアップさせる呼びかけを、そのノウハウの伝授とともに行うことができる立場に立つことができる。

明治維新以降の日本の発展の歴史は、一部に問題を残しながらも、世界で普遍的であると考えられている価値観と政治制度を持ち、経済大国として成長した非欧米諸国近代化の成功例として、多くの発展途上国にとってモデルとなりうる歴史である。日本がこのような優位性を大いに利用し、世界に味方を増やしていくことが、将来の日本の発展や安全保障にとって重要な財産になるのではないか、と私は考えている。そのためには、明治以降の侵略の歴史をしっかりと清算する必要がある。これは苦しい作業ではあるが、日本が欧州でもなく、アメリカでもない、新たな発展のモデルとなる上で必須の作業であろうと思う。この問題を解決したとき、日本は倫理的に欧米諸国よりも、数歩先行した存在になることができ、日本はこれ以上軍事力を増強せずとも、世界から認められ、尊敬される国になる(おそらくその時には、日本が好むと好まざるとにかかわらず、黙っていても安保理の常任理事国になって欲しいと言われるだろう)。

すでに日本は60年前に「日本国憲法」を制定したときから、そのような存在になる基礎を持っている。国民の努力により世界有数の経済大国となったいま、憲法の前文にある「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という宣言を現実のものにするだけの力を今の日本は持っている。それを実現するかどうかは、現在の日本国民の選択にかかっている。

朝鮮半島情勢が緊迫する中、最近よく耳にするのが、「国益」という言葉である。国家の利益という意味であるが、結局はある国家が何を重視して行動するか、その優先順位を表すということになるのだと思う。

国家が選択を行うときの優先順位と言うことから、国益の内容は多岐にわたる。例えば、アメリカ産の牛肉の輸入をするかしないか(国民の「食の安全」を取るか、アメリカの政治との妥協を図るかという問題)、中国産のネギの輸入の緊急停止をするかしないか(これは農業の保護を取るか、自由貿易をとるかというかなり大きな問題につながっている)、などが国益が具体的に現れる例であろう。性描写をどこまで認めるかとか、妊娠中絶を認めるかどうか、などというのも国益に属する(国によっては、そういうことが内政の最大の対立点になったりする)。高速道路や新幹線をどこまで造るかというのも、国益をめぐる議論である。

しかし多くの場合、国益というのは外交や安全保障を語るときに多く出てくる。そのときの国益は、少々ナイーブに語られすぎるきらいがある。朝鮮が核兵器を持ったことで、日本も核武装するべきであるという議論が始まろうとしているが、その時によく出てくるのが、国益という言葉である。国政における優先順位と言えば当たり前の議論だが、「国益」と言われると何となく神々しい感じがするから(反吐が出る人もいると思うけれど)、言葉の力というのは恐ろしい。


日本の国益が何か(=日本にとって大事なことは何か)、ということを考えるときには、国家としての日本国がどのような目的のために設立され、運営されているのかという原点に戻って考えてみる必要があるだろう。そうすることにより、さまざまな国益に共通する普遍的な原則が見えてくるのではないだろうか。

日本国という国家の原則は、日本国憲法にいろいろと規定されている。各条文の紹介や解釈をすると長くなってしまうので、前文から日本国憲法が基礎をおいている考え方を引用すると、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。」となる。

前文の規定は、難しく言うと日本国憲法が近代立憲主義の原則に基づいており、個人の人権保障や権力分立、個人の尊重などといった国家権力の制限を第1の特徴とし、国民主権に基づいた代表民主制を第2の特徴とするということを示している、ということになる。

非常に簡単に言うと、国家としての日本国は、国民にサービスする、すなわち国民を幸せにするために存在しているということになる。国家機構に属する人々、すなわち政治家(議員)や公務員は国民の雇い人である。雇い人たちは国民に国政を任されているからこそ権威があるのであって、国民に奉仕できなければ(国民を幸せにできなければ)権威などない、ということになる。

すなわち、一人ひとりの国民が国益を考えるときの一番簡単なテストは、「そのような政策が採られて、自分や自分の周りの人が幸せになるだろうか」ということになるだろう。

そのためには、何が幸せなのかについて自由に議論ができて(自由)、自分たちを幸せにしない雇い人たちをいつでも解雇できるシステム(民主主義)が必要である。


日本国は国民のためにあるのであって、国民が日本国のためにあるのではない。
国家は国民を幸せにするために存在する。

これが現在の日本を作っている基本的なルールである。

そしてこれが日本国の最高の国益ではないだろうか。

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