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集団体操と芸術講演「アリラン」の内容は、朝鮮の現代史から将来の朝鮮の姿までを描くものとなっている。朝鮮労働党の考える歴史観、発展観に基づいて作られた巨大な「官製宣伝劇」と言ってもよいだろう。

「アリラン」の主要な対象は外国人観光客ではなく、実は、自国民だ。自国民を対象とした教育・宣伝を外国人(や海外同胞、南の人たち)が見ても楽しめるように芸術的に洗練させたものが「アリラン」と言えるだろう。

そういう「官製宣伝劇」は朝鮮半島研究者にとっては大変貴重な教材となる。なぜなら、「アリラン」には現在の朝鮮労働党が考えている世界観が反映されており、朝鮮の現状や政策を分析するときには、その世界観を知っておく必要があるからだ。

朝鮮の視点から朝鮮や周辺諸国、世界を見る視点を養うには、「アリラン」はとてもよい教材だ。



私は朝鮮経済に関心があるので、「アリラン」で経済がどのように紹介されているのかに注目した。その3で紹介した畜産の振興など、「人民生活向上」に関連するものとしては、大豆の増産や種子革命といったおなじみのスローガンがたくさん出てきた。


朝鮮は最近、産業政策で科学技術重視を打ち出しているが、「科学技術-最先端水準に」というスローガンが登場した。その他、IT重視などのスローガンも出てきた。



経済の話が終わった後、出てきたのは朝鮮の対外活動の基本である「自主、平和、親善」だった。この方針は1992年の憲法改正で、それ以前の「国家は、マルクス・レーニン主義及びプロレタリア国際主義原則で社会主義国と団結」するというものから大幅に変更されたものだ。



私は「アリラン」が「自主、平和、親善」のスローガンで終わったところに、朝鮮労働党の対外関係改善、特に米国と日本に対する関係改善の熱意を感じた。現実の行動では日本人から見ると好戦的に見えるが、国民に対する教育で「自主、平和、親善」により対外関係が開けていくと示していることに、朝鮮のある種の本音が見えるような気がした。

もちろん朝鮮の人々がとらえる「自主、平和、親善」の含意と国外の人々がとらえるそれには大きな差違があることも事実だ。国内向けには「自主」の固守を主張し、外国向けには「平和、親善」を強調するイメージ戦略があるのかもしれない。しかし私はソ連・東欧の社会主義政権が崩壊した直後の1992年に朝鮮が20年ぶりの憲法改正をして対外活動原則を変更した事実を重く受け止めたいと思っている。すでにEUの国々はフランス以外、朝鮮と国交正常化をしている。





訪問期間中、マスゲームと芸術公演を取り混ぜた「アリラン」を観にいった。以前「アリラン」を見たのは、2005年だった。3年たってから観ると、毎年少しずつ芸術講演の比重が高まってきていることを感じた。


最初のころは、参加者の多くが青少年(学生)中心だったのが、大人の参加者の比重が多くなってきたように思う。今回も会場の綾羅島メーデースタジアムに行くと、準備を終えて会場に向かう参加者たちが行進している姿を見ることができた。



今年は、上の写真のように、大人による競演も多く、また演技に見入ってしまって写真が撮れなかったが、アクロバティックな出し物も増えていた。北京オリンピックの開会式の時に聖火に点火した李寧(Li Ning)さんのように、空中をワイヤーに吊られて舞う出し物もあった。

とはいえ、物語の中には朝鮮の建国から現代までの歴史と今後の朝鮮の姿が、現在の朝鮮の観点から整理されて入っていることに変わりはない。国民に対する思想教育の一環としての「アリラン」の姿は、朝鮮の視点から近現代史と朝鮮の姿、そして朝鮮の未来を考えるうえでのまたとない教材ともいえる。



朝鮮の経済政策についての場面を見ていると、朝鮮が現状をどう把握し、どのような発展を目指し、そのための方法は何なのかについて、知ることができるようになっている。本来、「アリラン」はそのための宣伝手段なので当然だが、朝鮮の人々がどのような教育を受け、世界情勢をどのように判断しているのかを知るうえで、そして朝鮮に流れる「雰囲気」を感じるうえで、朝鮮を研究対象にしている研究者にとっても有用なツールだと思った。

建国60周年を間もなく迎えようとしている平壌は、街に飾られている装飾や祝賀のスローガンがいつもより多く、華やかな雰囲気だった。日本では軍事パレードがどのように行われるかが大きく注目されていたようだが、平壌の人々にとっては、政治的な行事はさておいて、9月9日~11日の3連休が楽しみのようだった。

夏の暑さも一息ついたものの、晴天が続き暑かった平壌では、路上の簡易売店でアイスクリームやサイダー、清涼飲料水などがそれなりに売れているようだった。




2000年の「アリラン」の時に平壌市内に設置され、その後全国に広まった「売台(メーデー)」は、その後もなくなることなく、朝鮮の風景に溶け込んでいる。最初のころは珍しくて写真を撮ったり、何を売っているのか尋ねたりすることが多くなったが、最近はその店のアイスバーの取扱銘柄やアイスバーの溶け具合などが気になる(店によって品質や保存状態に若干のばらつきがあるので)ようになった。

このような簡易売店は、常設の店舗に比べると埃っぽい街頭にあったりして衛生状態などが少し劣ることもあるが、全体的に中国よりはずっときれいで、韓国と同じくらい、日本のお祭りの屋台と比べてもそれほど不潔だとは思わない。ただ、売っているものの品質に関しては、よく吟味する必要があるかもしれない。サイダーやアイスバーなど、瓶に入っていたり個別包装になっているものはまず大丈夫だが、パンや揚げ菓子などは直射日光にさらされた結果、酸化が進んでいる可能性もあり、必ずチェックしたから買う方がいい。



滞在中、平壌サーカスを見学する機会があった。
平壌サーカス劇場は、市内の西方、光復通りにある。
普段サーカスを見ないので、断定はできないが、空中芸では空中後方4回宙返りなどの技が披露され、レベルはかなり高いのではないかと思う。



サーカスに出てくるクマはとても愛嬌があり、ユーモラスな動きをする。動物虐待という風に見る向きもあろうが、平壌ではそういった考え方はまだ一般的ではなく、楽しい出し物としてみんなが見ていた。

2008年9月6日~13日の日程で平壌を訪問した。今回は、朝鮮の学者との交流と建国60周年を祝う各種行事への参加が主目的だった。


平壌の順安空港に到着後、前回の訪問時にも見た新しいランプバスがわれわれをターミナルまで連れて行ってくれた。小さな変化ではあるが、空港内の案内表示がピクトグラムを多用したものに変更されるなど、全体的に「国際標準」を目指した変更が行われている。


市内までの道は新しく舗装し直されている部分が多かった。市内に入ると、祝賀ムードを盛り上げるためかさまざまな趣向を凝らした看板や旗が飾られていた。



今回の祝賀行事の中では、9月8日に平壌体育館で開かれた「中央報告大会」や9日に金日成広場で行われた民間武力である労農赤衛隊の行進と群衆集会とともに、マスゲーム「繁栄あれ、わが祖国」と「アリラン」が特に印象深かった(多くの大会と「繁栄あれ、わが祖国」には、カメラを持って行けなかったので写真はない)。

マスゲームは以前の「アリラン」のように、学生が主体のどちらかというと堅めの印象を与えるものだった。多くの学生が参加しているが、勉強に差し支えないか心配で周囲の人にたずねると、「体力的にも、精神的にも鍛錬になるので、問題ない」という返事が一様に返ってきた。ただ、「一部のエリート校の学生は参加しない」という返事もあった。


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撫遠を出たバスは、約3時間半後、同江のバスターミナルに到着した。同江市は黒龍江省佳木斯市の中にある県級市で、黒龍江(アムール川)と松花江(ウスリー川)が合流する場所に位置するところから、「同江」という名前になった。



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同江市は松花江、黒龍江の河川交通の要衝でもあり、ハルビンから山形県・酒田市を結ぶ「東方水上シルクロード」が2004年までここを通過し、日本まで荷物を運んでいた。また、最近では対岸のロシア・ユダヤ人自治州ニジニェレーニンスコエ村とを結ぶ道路・鉄道両用橋の建設が推進されている。鉄道も現在のところ貨物だけではあるが、同江まで延伸されており、近い将来、中ロ間の物流拠点となることが期待されている。




同江のバスターミナルは、黒龍江省佳木斯市を中心とする周辺地域だけでなく、冬季は氷結する松花江(ウスリー川)を通って、対岸のロシアへ向かうバスの出発地点ともなっている。市内にはまだそれほど高い建物はないが、中ロ大橋の完成などを見込んで貿易が盛んになることからオフィスビルの建設などが進んでいた。




川が氷結しない春~秋は、川幅の狭いところに浮き橋をかけて国境の通路としている。



同江は黒龍江・同江市から海南省・三亜市に至る延長5700キロの同三公路の起点になっている。中国らしい、スケールの大きい話であるが、馬鹿にしてはいけない。同江~ハルビン~長春~瀋陽~大連(海上)煙台~青島~連雲港~上海~寧波~福州~深圳~広州~湛江~海安(海上)海口~三亜の多くの部分が立派な高速道路なのだ(黒竜江省内でも同江~佳木斯間はそれほどでもないが、そこから先は片側2車線の高速だ)。

現在建設プロジェクトが推進中の中ロ大橋もこのような大規模な物流ネットワーク整備の一環として行われている。中国のスケールの大きい話が周辺国との経済関係を拡大するための戦略的なプロジェクトとして結実しつつあることを頭に入れて話をしないといけない時代になっている。


中国・遼寧省丹東市と朝鮮・平安北道新義州市を結ぶ新たな橋も、中国側は中朝間を連結するハイウェイ・ネットワークの整備という観点から設計を行っている。現在、朝鮮側はそこまでのスペックで橋を建設したいとは考えていないようだが、朝鮮の置かれた国際環境に変化があれば、深圳湾大橋のような立派な橋が架かることになるのだろう。

撫遠の河港に上陸後、税関の建物に進んでいく。税関の前はコンクリートの広場になっていて、さわやかな川風が吹き抜けていく。ハバロフスクの空気も良かったが、撫遠の空気は都市のそれではなく、草の香りがした。

立派な税関の建物に入っていくと、入国審査場があった。船から下りた人数と旅行社が提出した名簿の人数を照合しているのか、入国までには少し待たされた。

入国手続が開始されたので、手続をしようと思ったその時、中国側の旅行社の係とおぼしき中国人が「お前は入国してはだめだ。戻ってこい。」と身振りで指示される。後から思えば無視して入国審査を済ませてしまえば良かったのだが、件の係の所に行くと、「ちょっと待て」と言われ、その係は入国審査の事務所に入っていった。

数分すると、入国審査官の上官とおぼしきおじさんをともなって出てきた。そのおじさんは私に「パスポートを出せ」といい、パスポートを受け取るとどこかへ行ってしまった。パスポートがないので入国審査を受けられずにぼーっとしていると、入国審査官から「早く審査を受けろ」と促される。「お前の仲間がパスポート持って行ってしまった」というと、何も言わなくなった。

おじさんはなかなか戻ってこない。10分ほどしただろうか、おじさんが戻ってきて事務所に来い、と言う。別室審査が始まるのか(アメリカでは何回かあるが、中国では初めて)と緊張が走る。

別室では、おじさんの他に何人かの中年男性がたむろしてお茶を飲んでいた。私が入っていくと、にこにこしながらも鋭い視線を向けてくる。とはいえ、田舎の人の善良な顔ではあった。

ここで聞かれたのは、(1)お前は元中国人ではないのか、(2)なぜここから入国するのか、(3)入国した後どこに行くのかであった。(1)は生まれてからずっと日本人だ、(2)はハルビンから新潟行きの飛行機で帰国するため、(3)はハルビン市なのだが、ハバロフスクから日本に直接帰らないのがよほど不審なようだ。

それほど険悪な雰囲気ではないので、こちらからも質問をする。(1)日本人はこの口岸によく来るか、(2)ここは国家1類口岸(第三国人も通過可能)なのに、なぜ入国にこんな時間がかかるのか。答えは、(1)昨年、何人かの日本人がやってきた。しかし、即日ハバロフスクに帰る観光客であった。今年撫遠に来る日本人はお前が初めてで、ここから入国して別の所に行く日本人は見たことがない、(2)別に問題はないけれど、ちょっと待ってね、であった。

結局、ロシアに行く前にハルビンで参加したハルビン商談会のIDカードを見せたり、カメラで撮影した内容を「任意で」見せてあげたりしているうちに、もう「行っていいよ」ということになった。この時点で45分ほど経過していた。おそらくこの間にどこか(おそらく上級の部署に)に電話をして、入国させてもいいかどうかの確認をしていたのだろう。

入国審査はものの1分で終わり、税関検査も紳士的に検査をして2分で終わった。入国管理と税関の職員が2人で建物の前まで見送ってくれたのが印象的だった。

後から考えると私の中国ビザは180日の滞在が可能なものだったので、このまま入国させるとオリンピック期間中もずっと滞在ができる。ロシアから船に乗って撫遠くんだりまで来る怪しい日本人には「法輪講」や「テロリスト」の疑いがかけられたのだろう。

このようなトラブルがあった以上、この小さな街で市場の写真を撮ったり、あちこちでお店を冷やかしたりするとスパイ容疑までかけられかねないので、この街を離れることにする(私と接触した人に迷惑がかかるので)。

税関の建物からタクシーに乗り、バスターミナルに行く。




ちょうど同江行きのバスが発車するところだったので、きっぷを買い、乗り込む。同江には知り合いの友人がいるので、その彼を訪問することにしていた。

バスターミナルを発車すると、バスは小さな街をすぐに抜け出て、片側1車線のコンクリート舗装の道路をひたすら走り続ける。



道の両側には、よく手入れされた、真っ黒い肥沃な大地が広がる。見渡すかぎりの畑と田んぼが続いていく様子に圧倒される。ロシア国境の辺境まで耕されている。ロシアでは荒れ地や原野が目立つが、中国に入ると目に入るものは耕地にかわる。



同江までの3時間半ほどの間、肥沃な大地の中をバスは走り続けた。東北振興政策の黒龍江省の重点のひとつが農業に置かれていることは知識としては知ってはいた。この3時間半の間に見た風景によって、黒龍江省における農業の重要性は単なる経済振興の問題に止まらず、中国13億の民の生存に関連する重要な問題だと思うようになった。

いよいよ、ハバロフスクから中国・黒龍江省・佳木斯市の撫遠鎮へと出発する日がきた。

旅行社で買った切符に記載された集合時刻(本来は撫遠ツアーの集合時刻)に船着き場に行く。旅行社で切符を見せると、顔を覚えていたのか英語で「少し待ってね」と言われる。

旅行社のコンテナハウスの前で待つこと約30分、ツアーガイドとおぼしき人がやってきてロシア語で何か話し出す。コンテナハウスの前で待っていたロシア人が一斉に乗り場に向かうので、出発だと思いコンテナハウスを見ると旅行社の係員が頷いている。

ツアーのロシア人の後について、船着き場に入る。改札口のような場所があり、一人一人に乗船省が手渡される。船は何隻か出発するので、別の船に乗ってしまわないようにするためだろう。

出入国施設は埠頭の先の浮き桟橋に設置されている。税関検査(出国時はほとんどフリーパス)と出入国審査(内務省のカウンターは無人だった)があり、船ごとに審査を行うために、前のグループが審査を受ける間、待機する。

われわれの船の審査が始まった。ロシア人の出国はそれほど時間がかからないが、中国人は念入りに審査をされている。日本人はどれくらいの時間がかかるのだろう。

審査の番が回ってきた。ブラゴベシチェンスクの入国の時には、増補部分の有効性確認のためにずいぶん待たされたので、今回もそういう目に遭うかもしれないと思うと少し緊張する。

結局、審査は3分ほどで終わった。特に調べるべきことはなかったようで、端末を操作して何かを入力したあと、少し待ってから出国のスタンプを押してくれた。おそらくロシアでは速いほうに入るのだろう。

日本(日本人と特別永住者は速いが、外国人には評判の悪い指紋採取と写真撮影があるのでかなり時間がかかる。アメリカやイギリス並みにいやな感じだと思う)や韓国、香港、台湾、中国それに日本のパスポートを見るとほとんど何もしないでスタンプを押してくれるフランスやイタリアなどの迅速な審査(ちなみにドイツはしかめっ面で顔の確認はする。イギリスは人によっては結構時間がかかる。アメリカは指紋採取と写真撮影があるので速くしても時間がかかる)になれていると、これくらいのスピードでも遅く感じるが、それでも時間がかかると悪評が高かったソ連時代よりはずいぶんと速くなったのだろう。

出国審査終了後、同じ船に乗る人たちの出国審査の終了を待ち、乗船する。船はロシア船籍でロシア製の水中翼船だった。乗船後、しばらくして船はゆっくりとハバロフスクの河港を離れた。


河港を出ると、船は次第に速度を上げながらウスリー川(松花江)を遡上していく。ウスリー川の本流はロシア領側にあるので、両岸はまだロシア領だろう。船はかなりのスピードで走っている。途中で巨大な送電鉄塔が見えてきた。ということはまだロシア領内を通過していることになるのだろう。


出発から約1時間20分ほどが経過し、船が速度を落とし始めた。対岸を見ると緑色の耕作地が見える。中ロ国境でどちらが中国でどちらがロシアかを見極める簡単な方法として、工作されていればそこは中国、というのがある。中国の東北部は巨大だが、平地はほとんどが耕作地になっている。ロシアは一部に耕作地があるものの、国境地帯は荒れ地か森林地帯が多い。

船はゆっくりと撫遠の船着き場に入っていく。岸には五星紅旗がはためく建物がある。上陸してみると「撫遠口岸」と書いてある。辺境の国境ではあるが、大変立派な建物だ。この後、とんだハプニングに見舞われることを知らないまま、税関の建物へと進んでいった。


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ブラゴベシチェンスクからハバロフスクへやってきた。

ハバロフスクは極東の首都ともいえる場所で、1858年に東進してきたロシア軍の監視所ができたのが街の歴史の始まりとされている。ウラジオストクができたのが1860年に締結した北京条約の後だったので、こちらの方が歴史は古い。





教会広場にあるのがウスペンスキー教会。スターリン時代に破壊された教会を2001年に再建したもののようだ。どおりで建物が新しい。教会広場からウスリー川を見ると、滔々と流れる川の姿が見事だ。



街のメインストリートになるのがレーニン広場とアムール川沿いの教会広場を結ぶムラヴィヨフ・アムールスキ-通り。ショッピングストリートにもなっていて、国際的なブランドショップも並んでいる。ウラジオのどこかくたびれた雰囲気に比べて、ハバロフスクにはヨーロッパの街独特の小綺麗さがあるように感じた。道行く人の雰囲気もハバロフスクが極東では一番ウラジオストクやウスリースクよりも洗練されているように思う。


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ハバロフスク駅前には、この地を探検した17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフの銅像がある。駅前はバスや路面電車のターミナルとなっており、ひっきりなしに人が行き来する。





初夏とはいえ、すでに気温が30度を超える日もある6月のハバロフスクでは、人々は真夏の格好になっていた。ホテル部屋の冷房がこんなにありがたいと感じたのは、久しぶりだった。それも東南アジアではなく、こんな北でそういうことになるとはあまり考えていなかった。大陸性気候というのはとても大味だ。そこに住む人には、それに翻弄されないような精神力が備わるのだろう。



ハバロフスクからは中国・黒龍江省の東北部にある撫遠へと船で出国することにした。このルートは外国人にも開放されているルートだが、ほとんどのお客はハバロフスクから日帰り観光をするロシア人だ。そのため、船の料金は、ガイド料込みのツアー価格で設定されており、それが約3250ルーブル(約15000円)。




船着き場付近の旅行社(コンテナハウスに入っている)を訪れ、片道運賃を計算してもらう。パスポートを見せ、中国のビザがあることを確認され(日本人はノービザ滞在できるのだが、信じてもらえないケースが多々あるので、私はマルチプルのビザを取得している)、旅行社の係員がどこかに電話をしていた。結局、1800ルーブル(約8100円)となった。お金を払い、切符とはいえない(ツアーの一部参加のようになるので)メモを渡され、切符の購入は15分ほどで終わった。

中国・黒龍江省黒河からロシア・アムール州ブラゴベシチェンスクまでの距離はわずか700メートルほどだ。冬は黒龍江(アムール川)が結氷するので、そこを車が走るので、陸路での移動が可能だが、結氷期以外は船での往来となる。

黒河からブラゴベシチェンスクへの出国は、大黒河島国際商貿城の隣にある黒河口岸で行う。中国の他の口岸と同じく、税関検査を済ました後、出国審査となる。

日本人は中国の辺境に行ってもたくさん見かけるが、それはどうも南部や西部が主のようで、黒龍江省からロシアに抜ける国境にはそれほどたくさんいないようだ。というのは、黒河からの出国で、パスポートの増補部分の検査のために30分ほど待たされたからだ。

日本のパスポートは、査証欄(スタンプを押すところ)がいっぱいになると、1回にかぎり追加のスタンプ欄をひっつけてもらうことができる。これを増補という。これはパスポートに増補紙をテープで貼り付け、貼り付けたところに割印(エンボス)を行う。この貼り付けは手動で行われ、しかもパスポートの表紙は増補部分の余裕をもたずに作られているので、増補部分は表紙からはみ出してしまう。これが何となく、偽造パスポートのように見られるのだ。

日本人が多いところだと、増補してあっても何ら問題なく国境を通過できるのだが、初めて増補したパスポートを見る場合、係官によってはパスポートの有効性について疑念を持つ人もいるようだ。ここ黒河では、まさにそのようなケースにあたり、パスポートが真正な物かどうか検査に回され、30分ほど待たされた。

出国審査後、乗船となるのだが、実は黒河口岸の前には、ロシア行きの渡し船の切符を売る場所がない。なので、切符をもたないまま、乗船口につながる通路まできてしまった。警備をしていた辺境警備隊の係官に「切符がないのだけれど」と伝えると、「ちょっと待っていろ」といって、どこかに行ってしまった。5分ほど待っただろうか、件の係官がやってきて「これが切符です、100元」と言われた。ロシア語で書かれたその切符がどういうルートで手に入れられたのかはわからないが、妥当な金額だったし、礼を言ってお金を払った。

船に乗って40分ほど出航を待った。街の中よりは川の上を流れる風は涼しいとはいえ、暑い中待たされて閉口した。出航すると、船はゆっくりと黒龍江を渡りだす。15分ほどで対岸の埠頭に到着した。

ロシア側の埠頭は、高い堤防の下にある。荷物を持って、30段ほどの階段を上がる。上がりきったところに広場があり、出入国審査と税関検査(検疫も)をする建物がある。建物の中に入ると、エアコンが効いていた。さすがロシアはヨーロッパだけある。

出入国カードをもらい、記入する。列に並んで5分、順番が来てパスポートを渡すと、中国のパスポートだと思っていた係官の表情が困惑の表情になる。電話をして別の係官を呼びパスポートを虫眼鏡で見たり、ブラックライトにかざしたりして真正旅券かどうかの検査をしているようだった。結局係官だけでは決められず、上官を呼び、別室でパスポートの鑑定をすることになったようだった。「ここで待っていろ」と身振りと簡単な英語で指示され、入国審査場でパスポートが帰ってくるのを待った。

30分以上待っただろうか、パスポートが本物であることが証明され、審査が開始された。今度は割合スピーディーに審査が進む。審査が終わり、スタンプの押されたパスポートを受け取ると、係官が「お疲れ様でした」と言いたいのか、にっこり微笑んでいた。

その後、ロシアではおきまりのイミグレーションによる(出入国審査は国境警備隊が行う。イミグレーションは内務省)パスポートのチェックと登録が行われ、その後に税関検査。買い出し客が多い中でカバン1つだけなので、すぐに検査は終わり、建物を後にした。



ブラゴベシチェンスクにはいくつかホテルがあり、そのうちユービレイナヤホテルというのがどうやら代表的なホテルらしいことがわかっていた。しかし、川に近いホテルはドルジバホテルだそうだ。どちらも、実際にどう行けばよいのかよくわからなかった。

タクシーに乗ろうかと思いかけたその時、埠頭前にバス停があり、何人かの人が待っているのを見つけた。おそらく街の中心に行くだろうから、バスに乗って街に行くのも悪くはないと思い、バスを待った。

数分後に来たのは、バスと言うよりは乗り合いタクシーのようなバンだった。急いで乗り込んで、行き先として「ホテル」と言うと、運転手は頷いた。おそらく近くまで行ってくれるのだろう。



3つめくらいのバス停で、「ここで降りろ」と身振りで教えてくれる。「ホテル」というと「あっち」と指をさされる。よくわからないが、周囲の雰囲気は特に悪くはないし、まだ昼間なので、大丈夫だろうと思い、そちらの方向に向かって歩き始める。

数分歩くと、何となくホテルの雰囲気を漂わせる建物が見えてきた。看板には「ドルジバ」と書いてある。予約はないが、とりあえず中に入り、宿泊できるか交渉してみることにする。

ホテルはほぼ満員で、4000ルーブルの部屋しかなかった。しかし他のホテルがどこにあるかわからない以上、ハイシーズンである6月に部屋を押さえておかなければ泊まるところがなくなるかもしれないという恐怖感もあるので、地方都市のそれほど高級とはいえないホテルだが、その値段で泊まることにした。

高級な部屋だけあって、ホテルからはウスリー川(黒龍江)がよく見える。対岸の黒河の街も少し遠いが見えた。黒河の街からこのホテルまで3キロくらいしか離れていないが、渡ってくるのに3時間ほどを要した。北東アジアでは国境越えは平均して数時間かかると見ておかないといけない。これが同じ中国の隣国でも、ベトナムとかラオスだともう少し迅速にことが運ぶ。

国境通過にかかる時間は、その国や地域の緊張や矛盾の皮膚感覚(実際の緊張や矛盾の度合いではなく)と関連があると思う。その意味で北東アジアは、清とロシアの勢力争いや日清・日露の戦争、満州国の存在、東西冷戦や中ソ対立といった、世界的な大国間の緊張の中に長い間あった地域で、その名残が色濃く残っている地域だということと、もともと国境自体が人口が少なく、頻繁な往来がなかった所に設定されたので、皮膚感覚として国境の敷居が高いのだろう。

ブラゴベシチェンスクで1泊した後、ハバロフスクに向かう。市内から空港までは約25キロ。ホテルから空港までのタクシー代は400ルーブルだった。ウラジオストクで、1キロだけ乗っても100ルーブル以上とられた経験があるので、空港までのタクシー代がいくらになるか気になって仕方なかった。降りるときに足りないと言われることを覚悟で500ルーブル渡すと、100ルーブルおつりを返してくれた。ウスリースクもそうだが、田舎の街のロシア人は正直な人が多いようだ(つまりウラジオが例外ということか)。



ブラゴベシチェンスクからハバロフスクまではダリアビア航空のアントノフ24型ターボプロップ機に乗った。チェックインしても座席を指定してくれないのでおかしいと思っていたが、自由席だった。がらがらだったので皆が思い思いの席に座っていた。2時間ほどでハバロフスクに到着したが、途中に見た半分湿地の原野が続く風景は、耕地が広がる中国・東北地方とは異なり、雄大な自然の風景だった。

2008年6月、前回の吉林省・延辺からウスリースクの往復に引き続き、今度は黒龍江省の黒河からロシア・アムール州のブラゴベシチェンスク、ハバロフスク地方のハバロフスクを経て、また黒龍江省に戻る中ロ国境の旅に出かけた。

ハルビンでの会議の後、空路で中ロ国境の街、黒河入りした。


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ハルビンから黒河までは約1時間。中国南方航空(北方分公司)のA320で快適なフライトだった。黒河空港到着後、荷物を受け取り、ターミナルビルから出る。空港バスを探したが、どうもないようだ。

タクシーの運転手が近づいてくる。「乗らないのか」と尋ねてくるが、とりあえず「乗らない」と答え、バスを探す。しかし、バスはない。仕方がないので、タクシーとの値段交渉に入る。言い値は50元、少し高い。乗る、乗らない、街まで歩いていく(20キロくらいある)を繰り返し、25元まで下がった。少し安すぎるので、後で値段が上がるかも知れない(実際そうなった)と思いながらタクシーに乗り、市内のホテルに向かう。

空港から市内までは、片側1車線の立派な舗装道路。車がほとんど通らないので、15分ほどで街の入り口までやってきた。道路工事で舗装がはがしてあるところを、濛々たる土ぼこりの中を進む。窓を閉めても、隙間から埃が入ってきて、全身土ぼこりでコーティングされてしまった。



ホテルにチェックイン後、黒河市内を散歩する。黒河は小さい街なので、繁華街はそれほど大きくない。繁華街を抜けて黒龍江(ウスリー川)に向かう。河岸の公園を散歩すると、黒龍江で水泳をしている人々を見かけた。川の向こうは、ロシア・ブラゴベシチェンスク市。陸上国境のない日本から来ると、何となく珍しい国境だ。

散歩の次は、食事。36度の酷暑の中、レストランを探す。黒龍江(ウスリー川)からそれほど遠くないところに、割合清潔な感じの中国料理店があった。店に入ると、ロシア人のお客さんも多い。





ロシア人のお客さんはメニューを見ているが、私は中国人に見えたのか(日本人はほとんど来ないだろうから、当たり前か)、先にサンプルを見ながら料理を注文しろといわれる。
ナスの炒め物と水餃子、この店で醸造している生ビールを頼み、席に着く。隣の席はロシア人だった。

この店に限らず、黒河市内の比較的こぎれいな飲食店にはロシア人がたくさんいた。ケンタッキー・フライドチキンにもロシア語で注文できるカウンターがあった。田舎町の黒河には、ロシア人が清潔だと感じる飲食店はそれほど多くはないのだろう。



黒河の市内を歩くと、対岸のロシア・ブラゴベシチェンスクから多くの買い物客が来るようで、街中の看板にはキリル文字が併記されている。吉林省の琿春にも同じような看板があるが、あちらは中・朝・ロ3言語表記なので、中ロ2言語表示の看板は少し新鮮な感じがした。



市内の店の分布を見ると、明らかにロシア人買い物客を意識したと思われる店がいくつもあることに気がついた。ほとんどすべてが中国製だろうが、商品の陳列や店の雰囲気はロシア風、という店が結構あるようだ。下の写真の女性用下着屋さんなどは、中国人の入店を断る表示まであった。



こうしたこじゃれた店の他に、ロシアからの渡し船が着く黒河口岸の近くには、大型の市場「大黒河島国際商貿城」がある。ここは多くの個人事業主が小間ごとに入居する形の市場で、主にロシアからの買い物客を対象として商売をしている。

売っているものは食品、日用雑貨、衣類、自動車用品、DIY用品などさまざまで値段もそれほど高くはないようだった。私は中国人に見えるので、あちこち見て回ると、同業者の敵情調査に思われるようで、あちこちから鋭い視線が飛んできた。




このように現在の中国・黒龍江省黒河市とロシア・アムール州・ブラゴベシチェンスク市の間には、買い物客や観光客の往来を通じて密接な交流関係が形作られている。

旧ソ連の社会主義政権が崩壊したころは、中国からロシアへ商人が出かけていって、ブラゴベシチェンスクが中ロの民間貿易の中心になったこともあったようだ。

現在はロシア人の買い物客が圧倒的に多く、中国人は若干の商人が往復しているようだ。ロシアも中国も国境の行き来が盛んになるのを手放しでよろこんでいるわけではない側面もあるようだ。

中ソ対立が深刻だったころ、黒河は最前線で、いつソ連の攻撃を受けるかわからないところだった(これは吉林省の琿春も同じ)。それがソ連の社会主義政権崩壊後は、一転して中ロ間の貿易の中心となった。黒河は1858年に清とロシアが締結したアイグン(璦琿)条約が結ばれた地だ。国際関係を考えるときには、5年、10年といった短期の歴史だけでなく、数十年~100年の中期的な歴史、それ以上の長期的な歴史をも考えないといけないなと、黒河の街を歩きながら考えた。

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